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承認欲求と対人恐怖①真の欲望
- 2007/03/13(Tue) -

斎藤学氏メッセージから


母親と泣いている赤ちゃん・・・
二人の間には言語は介在していない。
母親は赤ちゃんの泣き声を空腹と受けとめるかも知れない。
本当にそうなのかも知れないし、そうでないかも知れないが、
母親は子どもの欲望を読み取ろうとする。


そのこと自体が重要なのだ。


赤ちゃんの泣き声を
空腹の泣き声と聞き取る母親との関係の中で
言葉が生まれ発達する。
そして、その基底にあるのは
乳児の存在をまるごと認める母親の存在である。
こうした乳児に向かう母親の意識と、そこから始まる充足感こそ、
人間にとって最も基本的な欲望と言える。


フランスの精神分析医ジャック・ラカンは
こうした「母親から承認される欲望」のことを
「母親の欲望」と呼んだ。
それは「母が自分の存在を欲望しているという欲望」のことなのだ。


人間は他者との間で、
この基本的な「承認を求める作業」を繰り返していく。
それを「人生」という。
その出発点で、
この基本的な欲望がほぼ満たされている人は、
その後の人生が比較的楽にいく。


「私は人に認められ、受け入れられて当然」と思える人は、
特定の状況で特定の他人から拒否されても、無視されても、
それほどこたえない。
「あの人(他者)変だわ」くらいで済んでしまう。


しかし基本的な承認を受けていない人
自分の基本的な欲望を満たすためには、
まず母(他者)に、「おねだり」しなければならない。
 しかし厄介なことに、
「おねだり」して得られた充足は、真の欲望を満たさない。
自分の欲求や欲望を
(欲求=必要というのは生理的なものであり、欲望というのは
生理的な必要が満たされたという「記憶」によって生じるもので、
そこには他者との関係という問題が含まれる)
読み取ってもらえないという「寂しさ」がつきまとうために、
「おねだり」そのものが嗜癖化する。
その結果
「貰っても、貰っても」満足がないという「貪欲」に陥っていく・・・

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承認欲求と対人恐怖②
- 2007/03/15(Thu) -

「おねだり」


「おねだり」は恨みを増す。
恨みは他者との関係を破壊する感情であり
これが蓄積するとやがて爆発する。
この爆発は「自己愛性憤怒」と呼ばれ
承認を求める愛着対象に向けられて、相手は心身ともに傷つく。


思春期になって筋肉の力が増した子どもが親を罵り殴るとき、
あるいは男が愛しているはずの妻を侮辱し暴力で制圧しようとすろとき、
そこに生じているのはこの「自己愛性憤怒」なのだ。


対人恐怖と「承認」


「承認」に由来する恨みを抱えながら「おねだり」もできず、
憤怒の爆発も起こさないのが「対人恐怖者」である。
対人恐怖者は他者に承認されることを「渇望」しながら、
そこで生じる「他者からの侵入」、「見知られる不安」に脅えている。


自己と他者との「相互承認」は「相互侵入」という危険を犯して
ようやく成立するバランスというものがある。
そうした危険にもかかわらず
敢えてこの関係に踏み込むことを「親密性」と言う。


対人恐怖者は、この「危険」を犯したがらず、
それでいて自分が承認されることを望み、
それが得られないことで世の中に恨みを抱えている。


「おねだり」をするまでもなく「私を受け入れてほしい」という
人間としての最も基本的な欲望が満たされずにいるのだから、
その苦痛はひどい。


実は、彼らが自分を「対人恐怖者である、治して欲しい」
と訴えることそのものが、「おねだり」なのだ。
症状を訴えることによってしか、「おねだり」できないくらい
彼らは異常にプライドが高い。


しかし、この必死の懇願が受け入れられることはまずない。


なぜなら、この悩みは自らが他者(仲間)を承認し、
「自己の侵入を許す他者の苦痛に共感すること」によってしか
癒せないものだからだ。


医者に会い、症状を訴えるのは比較的やさしいが、
仲間と出会い、彼らを相手より先に受け入れるのは難しい。
ここに対人恐怖者の治療の難しさがある。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


私が抱えている現在の困難はまさしくこの一点にあると思う・・・


  「承認」に由来する恨みを抱えながら「おねだり」もできず、
  憤怒の爆発も起こさないのが「対人恐怖者」。


  対人恐怖者は他者に承認されることを「渇望」しながら、
  そこで生じる「他者からの侵入」、「見知られる不安」に脅えている。


  症状を訴えることによってしか「おねだり」できないくらい
  異常にプライドが高い。
  (・・・・敢えて自分の身体的感覚で表現するならば「異常に恐怖心が強い」)


  この悩みは自らが他者(仲間)を承認し、
  自己への侵入を許す他者の苦痛に共感することによってしか
  癒せない。


  仲間と出会い、彼らを相手より先に受け入れるのは難しい・・・


やはりここか・・・
そんな気分・・・


何度も挑戦しては、その都度敗退し、再び家に引きこもる・・・
そんなことを繰り返しているような気がする・・・


関係が持続し「親密性」が増してくると
不安と緊張が高まり、いたたまれなくなって逃げ出すか
「親密性」を求めすぎて、些細なことで深く傷つき
フラッシュバックを起こして持続できなくなるか・・・


そんなところをウロウロと
行ったり来たりしながら生きている・・・


そんな気がする・・・263263


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承認欲求と対人恐怖③嗜癖と対人恐怖
- 2007/03/16(Fri) -

精神科医・斎藤学氏メッセージから


        4.jpg


嗜癖と対人恐怖


ふつう精神科医たちは、
この二つを関連させて考えることがない。
多分その外見の相違のために。


嗜癖者は「だらしがない」、「自分に甘い」
「酔っていたりすれば社交的である」、「すぐに他人に頼る」
などの印象があるためだろう。
謙虚で奥ゆかしくて、几帳面そうな(そう見えるだけの話だが)
対人恐怖者の印象とは随分違う。


 しかし、仕事依存なども嗜癖であることを考えれば
この二つには密接な関連がある。
というより、
嗜癖者とは対人恐怖者のひとつのタイプである」と言い切って良い。
更に言えば、対人恐怖者は嗜癖という形でしか
「おねだり」ができない。
嗜癖者に見られる社交性なるものも、
実は「清水の舞台から飛び降りる」ような
冷や汗ものの無理であることを、
彼らと長く接してきた私は知っている。


もともと親密な関係を作るのが上手い社交的な人なら
なぜ酔っぱらって賑やかになったりする必要があるのだろうか?
なぜ、子どもっぽい甘えの仮装を使って
異性関係にのめりこんだりする必要があるのだろうか?


共依存者になると、この関連がよりいっそう明確になる。
共依存者の特徴のひとつは他人の評価を恐れること。
共依存者についてA.W.シェフが擧げている一つの特徴は
そっくりそのまま対人恐怖者のものである。


共依存者
他者の「承認」を求めながら
「おねだり」もできないままにそれを断念している。
人としての承認を相手に求める代わりに、
相手の欲望にひたすら奉仕し、
そうすることで、
他者にっとっての奴隷(あるいはロボットというモノ)」の役割
とり続けているのだ。


ンソニー・ギデンスは共依存を定義して
他者の欲望を借りて、自分の欲望としていること」と言った。


これこそ、
親密性の獲得に失敗した対人恐怖者が
他者に対して取るひとつのタイプに他ならない・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


対人恐怖・・・
嗜癖・・・
共依存・・・


自己分析を続けていくと
まるで当たり前のことであるかの如く
こうして全てが関連していくやりきれなさ・・・


その根源に
得られなかった『母からの承認』という
人として最も基本的な安心感や信頼感の欠如が
相変わらず漆黒の闇の中に
大きく口を開けて横たわっている悲しみ・・・


嗜癖(私の場合は性やカルト的な宗教へのアディクションだったが・・)や
共依存(アルコール依存・DV・浪費癖の夫との長い長い格闘の日々・・・)は
絶望的な「底を付く」体験を経て乗り越えることができたと思う。


今、私の家庭は
静かで穏やかな幸せに包まれ
1人1人の家族は
互いが自分自身
の人生を精一杯生きる
人間としての優しさや思いやりに溢れた
深い仲間意識で繋がっている。


でも・・・
どうしても人が怖くて
人を信じることが出来なくて
人と親密な関係を築くことが出来なくて
社会生活に困難を抱えたままで
辛い・・・のか?


こうして
これまでの自分の人生を振り返ると
悲しみや苦しみにまみれた記憶ばかりで
暗い絶望的な気分に陥ったりもするが
今与えられているかけがえのない家庭の幸せに
私は、心から、心から、感謝している・・・


だからこそ、これからも
さらに頭を上げて、前を向いて
自分が死ぬその日まで
人間としてのささやかな
努力を続けて生き抜いていきたいと
改めてそう思うのだ・・・



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承認欲求と対人恐怖④相互承認
- 2007/03/17(Sat) -

精神科医・斎藤学氏メッセージから


                            4.jpg


親密性とは対等な二人の関係


私たちは母親(ないし母親代理)の関心と世話焼きの中で育つ。
母親との関係こそ、親密そのものと言いえるのだがそう簡単ではない。


私たちは母親にしがみつき、依存してきたが、
母親の方も私たちを拘束してきた。
ゆえにこの関係は平等ではない


対等であること
二人の人間が親密であることの必須条件である。


私たちにとっての「真の欲望」とは
自分以外のもう一人の人から「承認」してもらうことだ。
そこで必要なのは条件をつけない「マルごとの承認」である。


「そのままのあなた、そのあなたがいい」と言うのが承認だから、
自分が「完全無欠」で、「この世の中心」ということになる。


しかし他者からの承認ばかり求める我がままが続くと、
相手は奴隷のようになってしまう。


奴隷に承認されても仕方がないので
自分も相手を承認しなければならない。


そうなると、自分の都合ばかり言ってられない。
相手に承認されるように、自分の方も譲歩しなければならない。


そのためには
「他人が自分に侵入してくる不安」に耐えなければならないことになる。


こうして私たちは「私を承認してという自己主張」と、
自分を承認してくれる他者に価値を見いだす「他者承認」との
バランス
を取って毎日暮らしている。


親密性というのは、
こうして相互に承認しあう二人の人々の間に漂う感情なのだ。


このバランスが崩れた時のひとつのありかたは、
自分を卑しめ
承認してもらいたい人に奴隷のようにつかえて過ごすという屈従の人生
だ。


そんな人は多くないだろうと考えるのは間違っている。


夫につかえ、子どもに尽くし
夫の出世と子どもの成長を自分のことのように喜んでいた
一昔前の女性たちの人生はこれに近かったと思われる。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「他人が自分に侵入してくる不安」に耐えなければならないことになる。


「他人が自分に侵入してくる不安」・・・


すでにそれは私にとって
「不安」を越えた生存そのものを脅かす「恐怖」でしかない・・・


あの家で味わってきた胸を切り裂かれるような疎外感・・・


否定され、嘲笑われ、髪の毛1本まで貶められて
私は毎日血を流し
その滴り落ちる血を幼い両手一杯に受け止めて
かろうじて命をつないで生きてきたのだから。


残酷で、陰湿で、執拗で、そして更に巧妙で容赦ない苛め・・・


母は、自分の人生のあまりの不遇であることへの恨みを
あの家で最も弱者であった私を苛めることで
晴らそうとしていたのだろうかと
ふと最近そう思う時がある・・・


憐れな母・・・


それにしても・・・これは私にとって大変な難問だ。


しかし、今、私たち家族は苦難に満ちた過去を乗り越え
新たな仲間としての関係性を結び直すことに成功したのだから
人との関わりへの希望を捨てずささやかな努力でも続けていきたい・・・


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承認欲求と対人恐怖⑤親子の親密性
- 2007/03/18(Sun) -

精神科医・斎藤学氏メッセージから


       4.jpg


親子の親密性


自分だけが優れていて、強くて、
周囲のすべては自分に奉仕するモノに過ぎないということになると、
これは寂しい世界だ。


寂しいから大急ぎで、承認してくれる「他人」を探そうとする。
そして、それらしい人々に出会うたびに、
自分の力を確認しようとして、相手を征服しようと攻撃する。


この攻撃は、自分より強いもの優れたものに出会って、
自分が奴隷になるまで続くパワーゲームだ。


子どもが暴力などで親を支配してしまった場合、
子どもはこの種の寂しい世界の中であがき続けることになる。


だから親は
子どもの自己主張に「適度な規制を加える力」と「気力」を持ち
子どもが「承認してもらいたい人」として留まる覚悟が要る。


子どもを承認しつつ
子どもから承認を求められる者であり続けること
これが親の仕事である。


これが難しいから
成人になった子どもは親から離れようとするのだ。


大人になってからもベタベタとまつわりつくような「友だち親子」や
一卵性母娘」ならたくさんいる。


この場合
相互に情緒的に分離していない


子どもの方が大人になっていなくて親子の融合が切れていないか
あるいは親自身がはじめから大人になっていないので
チャム(なかよし)グループを続けているだけのことである。


こうした二人は
親の方も、子の方も、家族以外の人間関係が貧弱である。


親密な関係は
あくまでも対等な個人の差異の感覚の上に成り立つものであり
相手は自分とは違うという感覚が育てば育つほど
親密な関係の必要性も増し
親密性の感覚に敏感になっていくのだ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


   カリル・ギブラーンの詩    (レバノン人の詩人-西尾和美訳)


あなたの子どもはあなたの子どもではありません


子どもは命の表現そのものの息子であり、娘なのです


あなたを通してこの世に出てきますが
あなたがつくりあげたものではありません


あなたと一緒にいますが、あなたのものではありません


愛情を与えることはできますが
あなたの思いどおりに考えを植え付けることはできません


子どもは子ども自身の考えをもっているのですから


子どもの体を家の中に置いておくことはできますが
子どもの魂をとどめておくことはできません


子どもの魂は明日という家に住んでいるのですから


そして、たとえ夢の中でも
あなたは明日という家を訪ねることはできないのです


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承認欲求と対人恐怖⑥冷蔵庫はしゃべらない
- 2007/03/19(Mon) -

精神科医・斎藤学氏メッセージから


対人恐怖とは親密な関係を作る能力の欠如のこと


他人の奴隷になりたくない。
かといって他人を支配しつくす力もない。
そこに生じるのが対人恐怖症の世界だ。


孤独で、寂しい。
本当は他者の承認が欲しくてならないのだが
それを求めるには
自分の境界に他人が侵入してくるのを許さなければならない。


その安と恐怖に耐えられず
世界の中に孤立する、絶対者としての自己を保ちたいのだ。


親への過度な依存から脱し、親との相互作用を経験しながら
独立した個人として育って行く過程で親密性の感覚は磨かれる。


対人恐怖症者は、この過程に恵まれなかった人だが
だからといって一生を閉じこもって過ごす必要はない。


必要なのは、知識とトレーニング


まず、相互に承認しあうバランスというものがあり得ることを知り
体験する必要がある。


親からの情緒的独立の過程で磨く機会を逸した親密性の感覚を
成人どうしの「安全な場所」で育て続けて行けばいいのだ。


どこにそのような「場」があるか?


わたし自身は「問題縁」で結ばれた「自助グループ」が
その一つだと信じている。
どこにそれがあるかを知ることも知識の一つである。


寂しさから嗜癖が生じる。
その寂しさとはこの種の対人恐怖症的な寂しさだ。


嗜癖者が食物やアルコールに手を出すのは、
これらのモノとの付き合いであれば
自分が承認される、されないという恐怖から逃れられるからだ。


冷蔵庫はしゃべらない」し「酒瓶は要求しない」からである。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


相互に承認しあうバランスというものがあり得ることを知り体験する


このことは、「家族の崩壊と再生」という過程を通じて
身をもって学ぶことができたと思う。


以前のような状態のままだったら
一体、娘はどうなっていたことだろうと、
心底、ゾッとするが・・・


しかし、だからこそ
娘は大変な問題を抱えた両親のもとで
成長してきたわけだから
今後、どのような「隠された真実の欲望」が
娘の内から立ち顕われてくるか・・・
しっかり覚悟して見守リ
すべてを受け止めていなければならないと思っている。


そのためにも
自分自身がさらなる「人間的成長」を目指して
たとえささやかな努力でも続けていきたいと思うのだ。


成人どうしの「安全な場所」で育て続けて行く


自助グループへの参加は1年程前から考え続けていて
通える距離にある「グループ」も見つけてはいた。


しかし、どうしても踏ん切りがつかなかった・・・


その根底には
「自分はもう大丈夫なのだ」と
そう思い込みたい傲慢さがあったように思う・・・


今思えば、
まるでその代わりであるかの様にいろんなグループに参加し
他者との関係のあり方を
自分なりにトレーニンゲしようとしていたようだ。


で、
全ての「場」で
「怒り」にかられたり、「寂しさ」に耐え切れなくなったり
母との関係を再現するような「場」では
とうとう「フラッシュバック」まで起こしてしまったり、と
最悪の結果を迎えることになってしまったのだが・・・


もう一度
「自助グループ」への参加を
真剣に考えてみようと思う。


そして、もし、参加することができたら・・・
ここにはっきりと、そのことを書き残すことにしようと思う・・・263263263


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承認欲求と対人恐怖⑦愛の感情
- 2007/03/20(Tue) -

精神科医・斎藤学氏メッセージから


親密性とは「拘束されない愛」のこと


親密性とは愛の感情である。
しかし、愛そのものが親密性というわけではない。


愛は時に相手に侵入し、相手を支配する形を取るが、
こうした愛は親密性とは無縁だ。


愛に飢え、他人の承認を求めればこそ
その他人を愛し、その人の生き生きとした存在を承認する。


そのためには、自分の境界に侵入されることも辞さないが、
他人の奴隷として屈服するわけではない。


そういうギリギリのバランスのところで成立するのが親密性だ。


セックスする二人は、
陶酔の中でそれぞれの情緒的境界を破り、
肉体において境界侵犯をゆるし合う。


独立した個人にとっては
危険な状態に入るというところに意味があり、
だからこそ
人間関係の中でも特異で重要なものとされているのだ。


したがって
これが相互承認という前提なしに行われると
それは加害と被害の関係になり、
被害者は肉体だけではなく、
心理的にも傷を受ける。


そしてトラウマ(心の傷)は、
被害者のその後の人生に深刻な影響を及ぼすことになる。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


性の問題について
私は語るべき言葉をもたない・・・


それは私にとって
あまりにも陰惨な体験の連続でしかなかった・・・


ギリギリのバランスのところで成立するのが親密性
であるというのならば
私にとってセックスは
そのバランスが破壊されたところでのみ可能となる
支配・被支配の過酷な行為でしかなかった・・・


脳の恐怖を感じる部分と
性的なものをつかさどる部分が接近しているために、
異常な恐怖感を感じると、脳の性的な部分が刺激される。


それが私にとってのセックスの
唯一の意味であったのだろう・・・

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承認欲求と対人恐怖⑧価値的存在
- 2007/06/13(Wed) -

斎藤学氏は
現代の生の一場面をこんな風に描写する。


少女たちが彼女の身体を客体化し
異性にとっての
“よい製品”である自己を作り出すことに汲々としている間
彼女たちの父親や母親は
職場にとっての良い働き手
家族にとっての良い母親を演じ続けて倦まない。


職場に過剰適応している多くの父親たちは
それによる苦痛を感じることも無いという点で
彼らの娘たちよりも危険なところにいる。


彼ら仕事依存者たちは
そうした夫にひたすら奉仕する共依存的な妻たちの期待に応えて
ひたすら働き、豊かな人間関係と、成熟した自己洞察を失って行く。


今の社会の“健全な”家族のなかで営まれているのは
この種の“非健全”である。


子どもたちは
職場での成績にしか生きがいを見出せない仕事依存的な父親と
彼に奉仕しながら支配する母親を見ながら
家族という“居心地の良い牢獄”の中で成長し
他者から評価されることでしか自己を実感できない人に育つ。


学校制度はこの種の空虚な人格の養成を主な機能とし
その規範に同調する生徒は
次の世代の役割ロボットとして合格品と判定される。


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承認欲求と対人恐怖⑨固着した関係
- 2007/06/18(Mon) -

ギデンズ(Giddens)
固着した関係a fixated relationship


他者を自らの身の安全を確保するための手段とみなし
自分に評価を与えてくれる道具として利用しているに過ぎない関係。

つねに他者を自分の思う方向へ動かそうという
「コントロールをめぐる権力闘争」が展開され
生きていく手段としてお互いを消耗しあう。


他者からの評価を得ることによって
自らの存在意義を得ようと躍起になり
徹底的な「評価」・「管理」・「品質ごとの階層分化」
行われているこの社会の中で
「自分がどのように評価されているか」を
生きる目標にさえしようとする。


「自分の存在意義を手に入れるための
             他者からの承認獲得欲求」


こうした自己現象は、現代社会のあらゆる場面で見られる。

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