FC2ブログ
2019 12 ≪  01月 12345678910111213141516171819202122232425262728293031  ≫ 2020 02
心理学化する社会
- 2007/07/03(Tue) -

『自己コントロールの檻』より  森真一・講談社
                
現代社会は
高度な自己コントロールと感情マネジメントを要請する社会である。


なぜなら、
現代社会の基底をなす人格崇拝
および合理化の両規範とも高度化・厳格化してきており、
そのような社会的状況で生活する人々は
高度に自己の感情をマネージしていかなければならないからである。


心理学的自助マニュアルをはじめとする心理学的知識は、
この状況に適応しようとする多くの人々のニーズに応えるとともに、
当該状況の維持・再生産に寄与していると考えられる。


カウンセリングへの関心の高まりや
「キレる人が増加している」という言説の流行から、
現代社会は
対人関係において高度の自己観察・自己コントロールを要請する社会であり、
対人関係における高度な道徳を要請する社会である。


このような高度な自己コントロールが必要とされるのは、
「人格崇拝」と「合理化」という道徳が
高度にあるいは厳格に規範化されているからである。


「合理化」および「マクドナルド化」とは、
人々がある目的を達成しようとするとき、
関連することがらを数量化し、
規則や機械によって関係者の行動をコントロールすることで、
より効率的に、より予測可能な形で当の目的を達成しようとする傾向を意味する。


世間に流布している自助マニュアルは、
心理テストの質問項目を用いて
不可視の心や性格の質を得点化・数量化する。


また、感情を適切にコントロールすることを説いて、
自己コントロールを強調する。


よって、こうした自助マニュアルなどの心理学的知識は
「合理化」および「マクドナルド化」に寄与する。


したがって、心理主義化した人々は
心理学的知識や技法を身につけて、
生活のあらゆる場面でより合理的に振る舞い、
スムーズに予想したとおりにものごとを進行させ
「マクドナルド化」に寄与し、
反対に「マクドナルド化」した人々は
「合理化」を維持・発展させようして、
さらに社会の心理主義化を維持・促進するのである。

この記事のURL | 世界との新しい関係性を求めて | CM(0) | TB(0) | ▲ top
人格崇拝という共同信仰
- 2007/07/04(Wed) -

E.ゴフマンは、現代における自己は
「適切な儀礼的配慮をもって扱わねばならず、
また、他人に対し適切な姿で示さねばならない神聖な存在である」
としている。


ゴフマンは、現代社会において個人の一人一人が、
「儀礼的態度」をもってお互いに「敬い合う」という社会的場面において、
「個人主義という宗教における人格崇拝」の現代社会での実践を見ている。


「人格崇拝」という共同信仰によって保たれている
現代社会における社会秩序
は、
個人が互いに払い合う「儀礼的態度」によって支えられている
という社会の仕組みであった。


ゴフマンは儀礼の基本的成分を大きく二つに分類している。


それは「敬意 deference」と「品行 demeanor」である。
「敬意」は相手の聖性を侵さないように一定の距離を保って接するという
「回避 avoidance」儀礼と、
積極的に相手への関心を示すことによって相手に対する承認の保証をするという
「呈示presentational」儀礼という対照的な行為によって実現される。


また「品行」は自分が他者によって
「敬意」を払われるに値する人間であるということを示す行為である。


つまり「敬意」と「品行」の関係の裏には、
「一般に、人は自分で自分に敬意を与えることは許されず、
他人にそれを求めなければならない」
という前提のうえに、
他者に敬意を与えることを迂回した
自己に対する敬意の獲得という構図が存在する。


これはお互いの人格についての聖性を認め、
互いにそれを承認し合うことによって、
社会秩序が保たれていくという意味において、
「承認の体系としての社会」の存在を証明するものである。
 
現代社会において、
他者によって承認してもらいたいという承認の欲求は、
そのまま「聖なる」人格を有する自分についての確認の欲求である。


人びとはお互いが相手の神聖を崇め合う司祭でありつづけることによってのみ、
秩序ある世界に安らぐことができている。
 
  敬意を他人から求めるために、
  人は、自分 に敬意を払ってくれる人々を捜し出す必要があることを知り、
  そして社会のほうは、そのおかげで、
  成員が相互作用と関係に入っていく一つの保証を得るのである。
  もし人が自分の手でみずから望む敬意を与えることができたとしたら、
  その社会は、 みずからの殿堂のなかで、
  それぞれに限りなく祈り続けているような、
  孤独な信仰的な人々のみが住んでいる無数の島々に分解してしまうだろう。

この記事のURL | 世界との新しい関係性を求めて | CM(0) | TB(0) | ▲ top
存在の証し
- 2007/07/05(Thu) -

存在論的安定を得ることが困難になった人間は
価値論的な安定を求めざるをえなくなり
自分が「ここに存在する(being)」というだけではなく
何かをなしうる(doing)価値ある存在である」
という実感を得ることに存在の証しを求めてきた。


さらに、「人格崇拝」という仕組みによって、
互いが互いを崇め合う役割を担って社会につながれ、
それぞれの人間関係を保つという、
承認体系としての社会構造」が存在していた。


そのような社会では
「自己の価値論的安定としての存在証明」には、
必ず「承認するものとしての他者」の存在が不可欠となった。


デュルケームは
道徳意識の高い「聖人」ばかりで構成される「僧院」のような社会では、
反道徳的な行為は起こりえないといえばそうではなく、
むしろそのような社会においては、
わずかな意識からの逸脱でも社会はそれに対して極めて敏感になり、
厳しく糾弾されるようになる
』と言ったが
現代はまさにそのような社会になっている。


心理学主義的言説の横行や
「内面」への強い興味関心が、
高度な自己コントロールを強要し、
他者に対しても相手の「人格」を侵害しないように要求する。


最大の権威は「人格」であり、
それを侵害することは最大の不敬となる。


自らもそのような「人格崇拝」の対象としての自分を意識するようになり、
自分の「内面」への侵害は攻撃の対象となるのである。

この記事のURL | 世界との新しい関係性を求めて | CM(0) | TB(0) | ▲ top
存在論的肯定
- 2007/07/07(Sat) -

前近代社会では、
人間は生活上の諸機能がそのなかで充足されるような、
よくまとまった小さな集団のなかで暮らしており、
その共同体内部での人間関係は
全人格的な融合状態にあり、相互扶助が成り立っていた。


その共同体に帰属しているということが、
共同体内部の固定した構造に組み込まれているということであり、
そのかぎりにおいて、
個人は「存在論的に肯定」されており、
共同体に属する諸財の提供や受領を受けることができた。


そこでは、
共同体からの離脱は存在の否定を意味するが
その「共同体」と「世界」は同等のものであるので、
近代以前の社会における人間は
彼らがこの世に生きているかぎり、
とりあえずは肯定されているという意味において、
存在論的に安定」していたのである。


そのような社会においては、
個人は帰属している共同体の一員として、
つねに「何者かである being」状態にあり、
個人という「個体性」を取り立てて問題にする必然性がなかった。
 
しかし、
生産技術や交通・通信手段の発展にともなう
社会生活の範囲の拡大や、
国家によるギルド・村落共同体・身分・宗教団体などの
中間集団からの特権剥奪などが徹底されていくにつれて、
それまで勢力を誇っていた共同体は次第に衰退
細分化した生活上の諸機能は
それぞれ別個の集団によって担われていくことになる。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ちょっと気分を変えてみたくなって
久しぶりに模様替えしてみました♪


夏らしくなったかしら?


水底から、やっと顔だけでも出したってとこかな(笑)



この記事のURL | 世界との新しい関係性を求めて | CM(2) | TB(0) | ▲ top
価値論的安定
- 2007/07/08(Sun) -

それまで全人格として個人を包みこんでいた共同体が
解体していく近代社会では、
個人は最初から
個々の原子化した「個人」として存在するしかなくなっていく。


原子化した人間は、
それまで必然的に従ってきた
特定の共同体から解き放たれると同時に、
今度はみずからが
「選択する主体」となって、
自分の所属すべき集団を複数選びとり、
みずからを帰属させていくようになる。


共同体から切り離された諸個人は、
みずからがすべてのことがらの出発点となり、
同時にその存在の根拠をも
みずからの手にゆだねられることになったのである。
 
このような「近代的個人」の誕生にともなって、
近代以前の社会においては
共同体への帰属=存在という
存在論的条件に基づいて制御されていた諸財の提供・受領が、
近代社会においては
その個人に対価を支払う能力があるか否かという、
個人の能力によって決定されることになった。


人びとは近代においては、
「何者かである being」という存在論的な理由のみによって
みずからの存在の安定感を得ることはできず、
「…だから肯定する」というように、
つねに「何かをしうる者である doing」
がゆえにその存在を肯定されるような、
「価値論的な安定」が必要となったのである。

この記事のURL | 世界との新しい関係性を求めて | CM(0) | TB(0) | ▲ top
社会的なるものの内面化
- 2007/07/16(Mon) -

自らの存在意義を他者に与えてもらわなくては
この世に存在することもおぼつかないような
脆弱な存在としての人間は
個人の自由を実現するために「理性的な自己意識」をもつものとして
個々人の存在の奥深くに社会的なるものを内面化させていく。


個人による社会への「自発的な服従」という
新たな権力構造」を用意していくのだ。


近代に特有の新たな権力構造について M.フーコーは、
イギリスの功利主義哲学者の J.ベンサムによって
合理的で効率的な監獄として考案された
パノプティコン(一望監視施設)で採用されている監視の技術が、
まさに近代社会を存立せしめている権力構造の象徴であると指摘する。
 
  可視性の領域を押しつけられ、その事態を承知する者
   (つまり被拘留者)は、みずから権力による強制に責任を持ち、
  自発的にその強制を自分自身へ働かせる。
  しかもそこでは自分が同時に二役を演じる権力関係を自分に組込んで、
  自分がみずから の服従強制の本源になる。(Foucault)


共同体に属するかぎりにおいて
そこでの共通の信念や慣行への画一的な同調を強いたり、
また特定の権力を有する者への服従を強いることによって、
社会の秩序を維持しようとする古い社会統制の方法が
有効性を失ってきたような社会においては、
社会が個人を統制し全体の秩序を保つための手段として、
個人の内部に道徳的義務(良心と同義)を植えつけ、
その良心にしたがって「自主的に」社会の諸規範に同調するように促す、
という方法は有効なのである。


人びとは近代イデオロギーを担う啓蒙思想によって与えられた
個人の理性の価値を受け入れれば受け入れるほど、
みずからの理性に対する尊重から、
自己の行動を統制する内面的な義務を感じるようになる。


こうして「理性的な近代的個人」は、
社会の諸規範により深いレベルで同調していく。


この時点で、近代のイデオロギーは
それまで個人の外部にあった管理装置を、
個々人の内部に埋めこむことに成功している。


個々人の内部に入りこんだ管理装置は、
個人に気づかれることなく、
内部から個人の行動を統制していく。


近代社会は、
個人にそれぞれの自由を追求させながら、
みずからの秩序をも維持していく
ことを可能にしており、
フーコーがパノプティコンの監視システムを
その象徴的な例として指摘しようとしたのも、
こうした構造についてなのである。

この記事のURL | 世界との新しい関係性を求めて | CM(0) | TB(0) | ▲ top
「狂気と社会」
- 2007/09/07(Fri) -

フーコー Michel Foucault ( 1926-1984 )


―権力は抑圧し罰するだけでない。
  それよりずっと奥まで浸透し、欲望を生み、快楽を煽り、知を創り出す。


「狂気と社会」


ー全領域にわたって疎外される人というのがあります。
それが狂人です。


あらゆる社会、またはほとんどすべての社会で、
狂人はすべてにおいて疎外され、場合によっては
宗教的、魔術的、遊戯的、または病理学的な地位を与えられています。


たとえばオーストラリアのある未開民族では、
狂人は超自然的な力を持っている者として、
社会に対しておそるべき存在とみなされています。


また狂人のなかには社会の犠牲者となる者もありますし、
いずれにしても、仕事、家庭、言語、遊びにおいて
一般の人たちとは違った行動をとるものとされています。


次に私が言いたいのは、現代の産業社会においても、
まったく同形(イソモルフ)の疎外体系によって狂人が一般社会から排除され、
周辺的性格を担わされている、という事実です。
 
第一の仕事という点についていえば、現代でも、
ある人を狂気と判断する第一の基準は、
「仕事のできない人」ということにあります。


フロイトがいみじくも言ったところによると、
狂人(フロイトは主として神経症の人のことを言ったのですが)とは
働くことも愛することもできない人である、とのことです。


この「愛する」ことについては後でまた述べるつもりですが、
ともかくこのフロイトの考えには深い歴史的真実があります。


ヨーロッパの中世紀においては、狂人の存在は許容されていました。
彼等はときに興奮したり、情緒不安定だったり、
怠け者だったりしたわけですが、あちこち放浪することが許されていたのです。


ところが、十七世紀頃から産業社会が形成されはじめ、
このような人びとの存在は許されなくなりました。
産業社会の要請に応じて、フランスとイギリスでは
ほとんど同時に彼等を収容するための大きな施設がつくられました。


そこに入れられたのは精神病者だけでなく、
失業者や不具者や老人など、すべて働けない者が収容されたのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「働けない」ことの強迫は、


ただ精神的な苦悩に留まるような生易しいものではなく、


それは「人間失格」の烙印であり、


命の危機であり、


尊厳は剥奪され、


その「私」なるものは、


物であり玩具であり、


売り買いされる、


ただの脂肪の塊へと貶められるということなのだ。

この記事のURL | 世界との新しい関係性を求めて | CM(1) | TB(0) | ▲ top
「癒し」と「超常」
- 2008/02/12(Tue) -
斎藤学氏メッセージ 「薬物依存と精神療法」 要約

       「癒し」と「超常」

精神分析では「癒し」などの言葉を用いることはほとんどありません。

フロイトの精神分析のカタルシス療法は、
ヒステリーの治療法として登場したものですが、それは「お話し」による感情移入、
悲惨な体験を人に話して泣くといったものと「催眠術」との入り混じったものでした。

ヒステリーを治療するという発想は、19世紀の半ばまで、
何とか政治的力を維持し続けてきた宗教的権威が保ってきた
「宗教的癒し」や「悪魔憑き」などの神秘体験を科学的に解明して、
宗教の世俗的権威を叩き潰すという意図から始まっていたのです。

つまり精神分析は、素人的「お話し」と、いかがわしい「催眠術」と、
中世的な「宗教的癒し」を放棄した「科学」を標榜して始まったものなのです。

精神分折や力動的精神療法は、第2次大戦直後のアメリカで全盛期を迎えますが、
その時期、一方では、この治療法の限界も明確になってきました。

精神分析が頼りにしていた患者の「内的現実」、
つまり、過去の人間関係、特に親との関係にまつわる心象の「解釈」に代わって、
患者=クライアントと家族との会話という、現実をそのまま観察の対象として、
そこに現れる「歪み」や「短絡」を、その場の「指示」によって修正する治療法、
「家族療法」が人気を集めるようになったのです。

この頃、かつて精神分析が捨てた「催眠術」を拾って治療技法に組み込んだ
ミルトン・エリクソン(Erickson,MH)が、
精神分析に限界を感じた治療者たちの注目を集めました。

エリクソンは、「症状」の持つ肯定的な意味を、すなわち、
「症状」もまたその人の生に関して、一定の貢献をしているという事実を見抜いて、
「症状」という行動に代わる別の行動を指示することに長けており、
それはあたかも戦闘指揮官が奇策を用いて敵を攻略するのに似ていたので、
彼に強い影響を受けた治療者は「戦略派」と呼ばれました。

「家族療法」は、これを簡略化した「ブリーフ(短期)療法」を生み、
これが現在の最先端の治療法ですが、ここでは
人間間相互作用から生じる人々の「ナラティブ(ストーリー、物語)」が大切にされ、
また、「催眠」を用いたイメージ誘導も多用します。

第2次大戦後しばらくしてからは、精神分析にとっての異端者であり、
宗敦的なもの、神秘的なものの治療的効用を説いたカール・ユング(Jung,CG)が、
彼のナチス擁護という過ちにもかかわらず、もてはやされるようにもなりました。

今では精神分析によっていったん捨てられた「催眠術」と「お話し治療」が、
洗練された形で精神療法の中に位置付けられています。

しかし「宗教的癒し」は、
相変わらず大方の精神療法家からは締め出されたままです。

現代の多くの精神療法家は、自分たちの技法を
「科学」と呼ぶことにためらいを感じていますが、
それでも彼らは自分たちの治療を「アート(技芸)」とか「テクニック(技法)」
と呼び、自分たちを「技術専門家」と考えています。

一方、世間の悩む人たちは、
相変わらず「超常的な能力」や、「神秘的な体験」や、
「宗教的な力」による救済を求めています。

精神療法の―部は、これらに道を開いていて、
その中には「学」としての体系を目指すものとして
「トランスパースナル療法」や「ホリスティック心理学」などもありますが、
中には「前世療法」や「水晶療法」など、
神秘そのものに足を踏み入れたものもあります。

元来、こうしたのもは、人々の迷妄と恐怖と宗教的悟りのうごめく、
反科学の領域であり、今もそのパンドラの箱を開けると
様々なエネルギーが噴き出てきます。

例えば、「癒し」と「超常」を求める心が営利の欲望と結びつくと、
様々な組織の、といっても方法論はほぼ一定の、「自己啓発セミナー」が生まれます。

同種の根から、これもまた様々な宗教運動が生まれ、
その多くは「カルト」として悩める人たちに空想上の超常能力を付与し続けています。

「癒し」という言葉の危うさは、このような状況から発しています。
それは「超常」という観念と結びつくと「危険」なものになるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・要約 ここまで・・・

以下・覚書

「人格の幼児性」について

自分の欲望や感情などを中心にしてしか、全ての物事を発想できない。

自分で自分を充たそうとはせず、他の何者かによって充たされようとする。

他人からの保証で自分を安定させようとする。

神秘的なものに引かれ、占いやオカルトを信じやすい。

自分のことを正視できないため、厳しく自己反省することが出来ず
そのため現実認識が「理性」ではなく「願望」の中でしか行われない。

「自分」と「他人」との間の現実認識の甘さ。

現実認識の中に、自分の願望が滑り込む。

「克服と自立」について

自分と他者とが、同じ平等な次元で生活しているという確かな認識。

自分と同じように、他者も感情を持っているという認識。

自分の中にある欲望や感情を、コントロールしていく意志。

物事を自分の感情を差し挟まずに、ありのままに見ていく理性。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・覚書 ココまで・・・

ST330001.jpg


こんなの、買いました。
いつも体中がコリコリで、辛い思いをしている次男へ。
3月24日の、ちょっと早いお誕生日プレゼントです。

相当、奮発しましたが、家族みんなで相談して、
家族みんなで使えるだろうからと。

もしかして、実は私自身のため?(笑)

この記事のURL | 世界との新しい関係性を求めて | CM(2) | TB(0) | ▲ top
| メイン |