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正体
- 2007/04/15(Sun) -

夫が、どんなに愚かなことや酷いことをし続けても
どうしても許してしまう自分がいる・・・


自分の許容限度を遥かに越えた
この許すという行為は
激しく血を噴き上げて身体が真っ二つに裂けていく様な
耐えがたい苦しみなのに
それなのに、まだそれ以上に、
もし私が夫の行為を許さなければ
夫が自殺してしまうのではないか
という
強烈な恐怖と不安に襲われ、パニックのようになって
結局は許す以外に自分が生きる術がない。


夫は人格破壊しているから
その行動は尋常ではない。


十数年も無免許で飲酒運転を続け、
警察につかまっても
泣いている私を不思議そうに眺めてケロリとしている。


数十社のサラ金にニ十年以上も借金を続け、
幼い子どもを抱えた私は例え台風の最中の日でも
嵐の中を子どもをおんぶし自転車に乗せ
決して濡れないように大きなカッパで子どもをスッポリ包み込んで
支払期限に追われて何件ものサラ金へ
嵐の中を突っ切って借金の返済を続けた。


家にはいつもお金が無くて
私はゴミ箱から拾って修理したスカートや
下着まで繕って身に着けていたが
夫は一晩で8万10万とお酒を飲み
たった1日で1ヶ月分の収入のすべてを
博打で失ったことも何度もあった。


そして、そんな時は
夫は1週間も10日も家に帰らず
私を強烈な不安と恐怖に陥れて
泣き疲れて何ら抵抗する気力も失ってしまった頃に
よろよろの姿で戻ってくる。
すると私は「ああ、生きていてくれてよかった・・・・」
ただ思うのはそのことだけ。


仕事から帰った時はいつも酔っていて
玄関を入るや否や
すでに仁王立ちでその場から私への罵倒が始まり
私が怯えて泣くと苛立って
さらにエスカレートして暴力を振るう。


「俺がどんな思いをして働いていると思うんだ!!」


それが夫の常套句。


夜中の2時3時までその罵倒が続くことも日常化していた。
包丁を持ち出して、私の目の前の畳に2本突き刺し
「お前が死ぬか、俺が死ぬかのどっちかだ!」と怒号は続く。


夫が酔い潰れて鼾をかいて眠りにつくまでそれは続く。
延々と続く。延々と・・・


幸い子どもは早くに眠るので
そんな夫婦の修羅場は何も知らない。
それだけが救いだった。
僅か朝の数十分の素面の夫を
本当の父親だと思って甘える娘の姿が私の唯一の救いだったのだ。
そして愚かな私もまた、その朝の数十分の素面の夫を
本当の夫の姿だと信じようとしてきたのだ・・・


この恐怖
夫がまたとんでもないことをしでかして
生活や家庭が危機に瀕してしまっても
そのこと以上に夫が家に帰らなくなった時に味わう凄まじい恐怖。


夫が浮浪者になって野垂れ死にしてしまうんじゃないか・・・
自殺してしまうんじゃないか・・・


死、死、死、死、死・・・
目の前に広がる夫の死に顔。
家を失い食事もとれず栄養失調でガリガリに痩せて
町を彷徨う夫の姿・・・


その恐怖と不安は凄まじく
夫から受けるあらゆる残酷な仕打ちの痛みと悲しみさえ
一瞬にして掻き消されてしまう。


その正体が、
その、日常のどんな苦痛や悲しみさえ掻き消してしまう恐怖の正体が、
やっと、昨日見えたのです。


私の妄想の中に常に顕われ私を恐怖のどん底に陥れる
今まさに見捨てられ死に瀕している夫の姿は
あれは決して夫そのものなどではなく、
あれは、まさしく
かつて何度も住居を失い一人町々を彷徨い食事にさえ事欠いて
死の恐怖に怯えた幼き頃の自分自身の姿であり
その頃強い自殺願望に捉われて何度も未遂を繰返した
自分自身の壮絶な悲しみであり
見知らぬ部屋部屋で
残酷な仕打ちを受けながらもやっと生き延びてきた
自分自身の地獄を這い回る姿であったのだと。


だから私は夫の中にかつての自分自身の姿を見
幼い頃から見捨てられてきた悲しみや実際に味わった
死の恐怖や絶望感が
「今、ここで、この身に」まさしく起きているかの如く
強烈に生々しく再体験してしまい
なんとか自分で自分を救おうとしてなんとか自分だけは自分を見捨てまいとして
ありとあらゆる苦しみさえ黙殺し、
夫(=私)を許し受け入れようと際限のない泥沼のような努力を
し続けて生きるしかなかったのだと。


それが、私の悲惨な結婚生活の正体。


愚か、憐れ、そして無性に悲しい・・・

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夫について考える
- 2007/07/11(Wed) -

最近、本当の意味での安定感を
身体的にも感じ始めている様子で
居間で寛いで寝っころがっている姿を見ていると
これまでの夫の人生が
如何に強迫的なものであったのかが窺える。


「のんびりするねエ」
「ああ」
「こんなにのんびりするのって、生まれて初めてと違う?」
「えっ、ああ、そう言えばそうやなあ」
「良かったね、のんびり出来て」
「そうやなあ、のんびりするなあ」


私たち夫婦がこんな会話を交わすようになるとは、
かつては想像だにできないことだった。


夫の母親は、激しい恋愛の末、
周囲の反対を押し切って、駆け落ち同然で新潟を出奔し、
遠く北海道の地へと嫁いでいった。
しかし、北海道での極貧の生活に耐え切れず、
当時3歳の男の子を連れて離婚し
失意の中で新潟へと戻っている。


夫の父親も、当時としては珍しく恋愛結婚をしたらしいが
病弱だった妻は1年足らずで病死し、
こうして子どもを連れた母親と
妻に死なれた父親は
互いに生活上の必要に迫られて、再婚することとなったようだ。


心から愛した男との不如意に終わった結婚生活。
そして、恵まれた、たった一人の形見のような息子。


その息子を自分の命よりも大事と抱きしめて
戦争で体を壊してからその生涯を
ほとんど働く事なく過ごした再婚相手の夫を支えて
懸命に農家の嫁として働きとおした人生であった。


夫の家は、それほど大きな農家ではなかったが、
新潟の稲作農家としては
常時、数人の人を雇って生業を営んでいた
それなりの田畑を持つ、中堅どころの家系であったと思われる。


「この子を後継ぎにしたい」


母親は、連れ子の長男を不憫がり、
ひたすらそのことを切望し
それ故にまた、懸命に働いたようだった。


しかし、因習深い新潟では、
血縁を何よりも大切にする土地柄で
母親のこの願いを叶えるには、
再婚した父との間に
決して男の子が生まれてはならないことだった。


「もし、男の子が生まれたならば、
 その子が父親の血を受け継ぐ正当な跡取となり
 この不憫な愛しい長男は、追いやられてしまう・・・・」


再婚相手との初めての子どもを身ごもった母親の胸中は、
決して穏やかなものではなかったであろう。


そして、誕生したのが、夫だった。

母にとって、決して生まれて欲しくなかった男の子・・・・


それが、夫だったのだ。

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夫について考える②
- 2007/07/12(Thu) -

夫の幼少期がどのようなものであったのか、
長い結婚生活の中でも、
断片的にしか聞いていない途切れ途切れの話を、
ゆっくり紡いでいくしか知る術はない。


東京で知り合って間もない頃、
夫はよく田舎の話をしながら泣いていた。
今思えば、本当にあの頃は何かと言ってはよく泣く男だった。
「田舎に帰りたい」それが口癖でもあった。


雪に閉ざされた冬の囲炉裏端で、
父親が話してくれたという新潟の昔話。


「いっちゃぽん~」
「それが昔話が終わる時の決まり文句でなあ」
遠い目をして話してくれた。


幼い頃、3度も腕を骨折して
痛みの強いリハビリを泣いて嫌がる夫に
好きなおかずを弁当に入れ、
汽車に乗って病院へと通ってくれたのも父親だった。


「心底、優しい親父でなあ。
 『仏の久太郎』って、村ではそう呼ばれていた」


一緒にお風呂に入り、曲がりきらない夫の腕を
湯船で温めては、毎日マッサージをしてくれたと言う。


お酒が好きで、仕事も出来ない弱い体でも
酒が途切れたことは一日としてなかった。
「飲めなくなった時は死ぬ時」
いつもそう言っていたらしいが
その通りの、脳出血による突然死という
眠ったままの静かな最後であったようだ。


「親族会議が何度もあってな。
 誰を後継ぎにするか、揉めに揉めたらしい」


夫が中学に上がる頃には、決着が着き、
後継ぎは長男に決まった。


「本当の長男は俺だから。
 親父はさぞガッカリしたことだろう」


「本当の長男は俺だから」
強い口調でそう言う時、
夫の目には微かな怒りが宿っていたように思い出される。


母親の思い出話は聞いたことがなかった。
当時の私は、そのことに何の疑問も感じなかった。
最近になって、余程母親に疎まれていたのだろうと
夫の否認の強烈さに、その抱えきれない寂しさが思い遣られ、
私の胸も切なく痛む。


母親との思い出もなければ、憎しみさえもない・・・・
掻き消されたままの母への愛憎・・・・


夫の胸中深くに、決して消えることのない埋火となって
それらが激しく燃え続けていたことに
私が否応もなく気付かされたのは
子どもが生まれて急激に変貌してゆく夫の復讐が
母親となった私へと向けられるようになってからのことだった。

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夫について考える③
- 2007/07/14(Sat) -

「家出」の真似・・・・
本人には、そんな自覚は全くなかったのだろうが、
何か問題に直面する度に、まずは、取あえず、「家出」をする。


最近でこそ、年に1回程度に減りはしたが、
(未だにやっているのだ・・・・今年は4月だったっけ)
かつては、3ヵ月に1度位のサイクルで、それは繰返されていた。


私が慌てふためき、嘆き悲しみ、
「帰って来てくれ」と泣いて何度も懇願するのを、
まるで愛情確認の
最も重要な儀式とでも思い込んでいるかのように
執拗に、強迫的に、繰返すのだ。


1週間、10日、一番長い時には半年以上も家に帰らず、
そのくせ毎日、電話だけは必ずかけて来る。
私の泣き声を聞くためだけに。


生活は困窮し、部屋代も光熱費も支払えなくなる。
私は早朝から深夜まで、食べることさえ忘れて働き、
生活費や夫が残していった借金返済に追われる。


こんな馬鹿げた生活に、更に拍車をかけたのが、
信仰していた宗教の教義であり、
たった1度かかっただけの、
同じ信仰を持った団体幹部でもあった精神科医の「治療」だった。


「宿命」
「すべては自分の過去世の罪」
「過去の誤った宗教の害毒」
「自分の一念が変れば必ず問題は解決する」
「それが出来ないのは、自分は悪くないと思っているから」
「信仰が足りない」
「心が汚れている」
「福運がない」等々・・・・


私の宗教依存はますます加速していった。
尋常ではない勢いで、早朝から深夜まで狂女の如く活動し、
呪われたかのように祈り続け、最後の頃には、
毎日6~7時間も命がけで祈っていたのだった。


そして、こうした私の狂気に共鳴するかの如く、
夫の言動も際限なくエスカレートしていった。
アルコール依存、私への暴力・暴言、浪費と借金・・・・
何もかもが、この世の地獄そのものの生活へと転がり落ちて行く。


「何故?何故こんなに耐えて努力して、
 自分の幸せなどいらないとまで覚悟して頑張っているのに、
 何故夫はどんどん悪くなって行くの?」


私の心身はすでに限界を遥かに超えていた。
暗黒の絶望は、私に、
死に至るまでの更に激しい活動を強いていった。


しかし、それでも
本当の意味での「底つき」に至るまでには、
まだ数年の年月が必要だったのだ。

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夫について考える④
- 2007/07/17(Tue) -

夫は、県立高校の受験に失敗し
間もなく、生まれ育った新潟を後にしている。


「高校に落ちた位でなんで家まで出たん?」
「とても、新潟にはおれないと思った」
「なんで?」
「親父が、子どものいない叔父さんが東京で靴工場をやっているから、
 そこの跡取になったらどうか、って話をつけてくれたから」


全く答えになっていない返事をして、
後は押し黙ったまま
徐々に苛立ってくるのがありありと分かった。


すぐに東京に出て、定時制に入学している。
慌しい旅立ちである。


東京では、言葉の訛りをからかわれて大いに荒れ、
「浅草の顔」と呼ばれるほど、
喧嘩に明け暮れた日々を送ったという。
顔や身体に、その頃の深い傷跡が幾つも残ったままだ。


「お母さん、何にも言わへんかったん?」
「せやなあ・・・・一度だけ、中学校の入学式の日に、
 新しい制服のズボン穿かせてくれたことがあってな。
 その時に、お袋、えらい優しいなあって思ったことがあったかな」
「そう・・・・」


嫌な気持ちがした。


夫が言っているその時期とは、
丁度長男が後継ぎに決まった、その直後のことではなかったのか。


口にこそ出さなかったが、
私は夫の母親のそうした行為に、
自分の母親にも共通している歪んだ自己愛の醜悪さを、
まざまざと見せつけられたような思いがして、
既に会うこともなく亡くなっていた夫の母親に対して、
その時、強い憎しみのようなものさえ感じたのだった。

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夫について考える⑤
- 2007/07/28(Sat) -

夫の最初の結婚が破綻したのも、
夫の家出がその決定的な原因となっている。


夫は、23歳の時に
東京の叔父の靴工場で中学を出てすぐから働いていた、
2歳年上のK子と最初の結婚をしている。


K子は、物心ついた頃には
既に母親は精神障害で入院したままの状態が続いており、
一家の長女として4人の弟妹や父親のために、
幼い頃から家事のすべてをこなし、
家計を助けるためにずっと働き通してきたという
大変な苦労人であった。


その結婚生活では、
面倒見がよく忍耐強い2歳年上のK子に対して、
夫は甘えと我儘の限りを尽くしていたようである。


やがて叔父の靴工場が倒産し、
建築関係の仕事に就いてから夫婦揃って例の宗教団体に入信。
そのことも強い動機付けになって、夫は懸命に働いて27歳で独立。
更に数年後にはリフォームの有限会社も立ち上げ、
好景気の波に乗って一時期は
相当羽振りの良い生活を送ったこともあったようだ。


何十万もの現金を財布に入れ、
新宿や赤坂、銀座と飲み歩いては一晩で散財し、
そのくせ自宅は質素な借家住まいのままという身勝手な浪費癖は、
既にこの頃から始まっていたようだ。
「社長」気分に酔いしれていたのであろう。
苦労人だったはずのK子も、収入が増えるにしたがって変貌してゆき、
家の中はK子が買い漁ったあらゆる物で、溢れかえっていた。


そんな結婚生活も、会社の放漫経営が行き詰まると同時に破綻し始める。


物事が上手く行っている時は、無様なほど傲慢に威張り散らす夫だが、
一旦困難に直面すると、為す術もなく闇雲に逃走する。


私はそれが不思議で仕方なかった。
「えっ?こんなことで?」と思うようなことでも、
夫には到底耐えられないのだ。


あれほど亭主関白を気取っていたK子との結婚生活も、
会社が不渡り手形を出して倒産すると同時に終わってしまった。


夫は二人の子どもと妻を置き去りにして突然家出をしたのだった。


K子はそんな夫を、決して許そうとはしなかった。
「二度と顔を出すな。どこででも野垂れ死にしろ」


K子からのその電話が夫への最後通告となり、
二人の結婚生活はあっけなく終焉を迎えた。

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夫について考える⑥
- 2007/07/29(Sun) -

精神分析学者のマイケル・バリントは、
「一次愛と精神分析技法」のなかで
憎しみについてこう言っている。
「原初的対象愛の最後の残り滓であり、その否認であり、
それに対する防衛である」


自分にとって、非常に大切な人なのに愛してくれず、
その人の愛情を得ようと、最善の努力をしたにもかかわらず
どうしても協力的なパートーナーとなってくれなかった人を憎む・・・・


子どもにとって、母なのに愛してくれず、
母の愛情を得ようと、最善の努力をしたにもかかわらず
どうしても応えてくれなかった母を憎む・・・・


これが憎しみの原型なのだと。


夫の中に眠っていた憎しみを呼び覚ましたのはこの私だ。


私という人格の依存と隷属性の強さが
夫の充たされなかった愛情欲求を目覚めさせてしまったのだ。


それも、憎しみと支配欲という極彩色に彩られた
凶暴なモンスターの姿と化して。

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夫について考える⑦
- 2007/07/30(Mon) -

私を激しく打ちながら
恐怖のあまり凍り付いたような目をしていた夫。
弄ぶように罵りながら
絶望の淵で救いを求める幼子のような目をしていた夫。


今なら分る。
夫が叫んでいた言葉の本当の意味が。
今なら聴こえる。
夫が叫べなかった悲痛な嘆きの声が。


どれほど困惑したことだろう。
何度愚行を繰返しても、
「帰って来てくれ」と泣いて懇願する女がここにいる。
どれほど打ち据え罵倒しても、
何度でも立ち上がりほほ笑もうとする女がここにいる。


求めて得られなかった母への愛を否定し
愛を求めることでかつて傷ついた体験から
二度とそうならないように
そのことから我が身を守るために
常にすべてを捨てて
自ら消え去ることを選ばざるおえなかった夫。


ところがこの女は
どこまでもしがみついて離れようとはしない。
どんなに打っても、どんなに罵っても、どんなに愚弄しても
蛭のように張り付いて、振り払うことさえできない。


それは恐怖?それとも混沌?
深い絶望?かすかな希望?


夫の、長い間命がけで否認し続けてきた
受け止めてもらえなかった愛情欲求が
私のこうした行為によってその固い封印を解かれ
激しい症状=憎しみのマグマとなって表出され
母となった私に向かって一気になだれ込んできてしまったのだ。

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夫について考える⑧
- 2007/07/31(Tue) -

夫の私への暴力は
自分の充たされなかった欲求表出の受けとめを
この私に求めたのに
私がそれに応えてくれないことから生じていたのではなかったのか?


当時、生まれたばかりの娘の世話に没頭する母としての私の姿は
自分をないがしろにして長男だけを大切にした
自分の母親の姿そのものだったのではなかったのか?


娘が生まれてから夫のアルコールへの依存は
急激に深まっていったという事実。


けれども私もまたこの時
夫に対して無力な子どもでしかなかった。


地の底を這うような生活から救い出してくれた夫。
親よりも、誰よりも、この世で最も大切な人だった夫。
私を永遠に保護し、守ってくれるはずだった夫。


その夫が急激に変貌してゆく様は
再び私を混乱と恐怖と絶望の世界へと叩き落した。


「鬼・・・・」
「夫は鬼になった・・・・」
「怒り狂う鬼になってしまった・・・・」


この時の私には、
夫の葛藤を受けとめる力など全く持ってはいなかった・・・
私もまた、乳幼児期に愛情欲求を受けとめてもらった体験を持たない
幼子のままの存在だったのだから。


私はそんな夫を前にして、自分が受けとめる存在になるよりも
自分もまた子どもになって、夫に欲求表出の受けとめを求めて泣く・・・・


受けとめる人のいない関係性。
そこでは互いの欲求表出は、虚しく空転していくだけ。
空転して、いつまでも同じ場所にとどまったまま
さらなる憎しみと怒りを増幅させていくだけ。


終わりのない暴力と隷属の日々は繰返され
ただ深い絶望をじっと見つめ
宗教に救いを求めて生きていくしかなかった。

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夫について考える⑨
- 2007/08/03(Fri) -

ボロボロになって、痛みを深くため込み
力なくただ佇んでいるだけの夫。
ひとりの剥き出しの人として、
ついに自分の存在と対面しなければならなくなった夫。
いままでずっと「強く」あろうとしてきて
しかも最後まで「強く」ありえなかった夫。
もう「弱さ」をさらさずには
生きてさえいけなくなってしまった夫。


私たちは破滅した。


そして、廃人のようになってしまった夫を前にして、
私は「できる」ことからではなく、
「できない」こと、「できなかった」ことからもう1度
夫ではなく自分の側から自分自身を見つめなおす以外に
到底、そんな夫を受け入れることはできなかった。


「できなくなる」こと、
「できなかった」ことのほうから自分を見つめるということは、
「何をするdoing(あるいは、してきた)か」というよりも、
「自分が何であるbeing(あるいは、あった)か」という問い、
さらには自分がここにいるということの意味への問いに、
差し迫ったかたちでさらされるようになるということだった。


思い知らされることの繰り返しのなかでしか見えてこなかったもの。
それは、意のままにならないということの受容・・・・
他なるものの受容・・・・


何かを意のままにするという強迫から下り、
「できる」ことにこだわって、
突っぱった生き方をしてきた頑なな自分をほどき、
自分がこれまで精一杯抑え込んできた自分のなかの「弱さ」と
ひたすら素直に向きあっていく。
人としての「弱さ」にみずから向きあうことから始める。
それが今いちばん必要なことなのではないか。


それはそのまま、宗教との決別でもあった。


「ただいる」ということだけで
人の存在には意味があるのではないかという問い。


あらゆるものを削ぎ落としていったその果てに、
「強さ」への強迫から放たれて
私の中に「何か」が残った。

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夫について考える⑩
- 2007/08/06(Mon) -

「がんばれ」というのは
「強い人間になれ」ということだったのだ。


(私はこれまで何度自分に、夫に、そう言ってきたことだろう・・・・)


「強い人間」というのは
自分の「意思」にもとづいて「自己管理」ができ
「自己責任」を担うことのできる人間のことだ。


そういう「自立した自由な人間」が
社会から宗教団体から要求されていたのだ。


(そして、私もまた、その社会的・宗教的な価値観を忠実に内面化し
 それを自他共に要求し続けて生きてきてしまったのではないのか・・・・)


それ以外の人間は厄介者として
管理され、保護され、迷惑をかけない存在でいなければ
生きてさえいけないという体制が今の世界の在り方なのだ。


(現実に不適応者の私は、住む家さえ失い暗い街を彷徨っていた・・・・
 宗教団体の中でも私は、常に苛めと排除の対象とされていた・・・・)


できるという能力、できたという実績をもとに評価され
その評価に基づいて
幾ばくかの何ものかを得ることで成り立っている社会。


学校だけでなく社会全体が
常に「する」存在として人間を問い詰めている。


「あなたは何ができますか」
「どの程度できますか」
「何をしましたか」


入学試験、入社試験、資格試験、昇進試験・・・・
そして、信仰心までが数値化され評価の対象とされてしまう。


人は死ぬまで
「何をしたか」「何ができるか」という評価に晒されて
こんなにも呻いているんじゃないのか。


極限的な身障者の方が
例えば
生まれたときから言葉もない、動くこともままならない、目も見えない
そんな存在の方が、自らの存在そのものを賭けて
私に語ってくれていることとは一体何なのか。


結局「ある」ということなのではないか。
「ある」こと自体が価値だということを
全存在を賭けて私に示してくれているのではないのか。


「する」のくびきから解き放たれ
「する」に押し込められたままになっている価値観から脱し
「ある」こと自体が価値だという
存在の根源へとストレートに戻り、全肯定すること。


夫とともに生きるということは、実は誰でもないこの私自身が
「弱くあること」の意味を突きつけられ
問い質される
ことに他ならなかった。

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夫について考える⑪
- 2007/08/09(Thu) -

今朝は寝坊をしてしまい慌てて下へ降りたら
夫はもう起きていて玄関で立ったまま朝刊を読んでいた。


「ごめん!寝坊しちゃった!4時半に起きたのに2度寝しちゃった!」


「いいよ、眠かったら寝てれば?」


「ううん、大丈夫!びっくりしてすっかり目が覚めちゃったよ(笑)
急いでお弁当作るから、もうちょっと待っててね!」


短く会話し、ばたばたと台所へ。


暑い日が続き、食欲も落ちているだろうと思って
最近のお弁当作りには力が入る。


おかずの品数を増やし
最低でも5種類は入れるように心がけている。


それが功を奏してか、夫も息子も残さず食べているようだ。


「朝ごはん間に合わないから
おにぎり作るから車の中でそれでも食べておいてね」


シラスと高菜で大きなおにぎりを握っていると夫が台所に来て


「うまそうやな~。自分で弁当作ろうかどうしようか迷っていたけど
作らなくて良かったよ(笑)」


「うん、えらいでっかいおにぎりになったけどしっかり食べてね」


どことなくいそいそとしながら夫は仕事へと出かけて行った。


アルコールを飲まなくなって2年近くは呆けたようになってしまって
仕事もできず、ふらふらと街を彷徨っていた夫。


どこで何をしているのか、何も分からなかった。


それでも毎朝お弁当を作り夫に持たせた。


夜は帰ってくる日もあれば何日も家を空けることもあった。


それでも毎晩夫の分も晩御飯を作ってテーブルに並べた。


精一杯のメッセージだった。


「いるだけでいいんだよ」
「ここがあなたの居場所なんだよ」


私は、傷つき病んでいる丸ごとの夫を力いっぱい受け止めたかったのだ。


当たり前の暮らしはできなくても生きていればそれでいいんだ。


夫を受け止めようとした力は自分に返り
私自身を受け止める温かな力となって身体を充たした。


合宿から帰った日、娘が言った。


「この家って、なんかもの凄くあったかくて居心地いいんだよな~
なんかよその家とぜんぜん違うんだよな~」と。


弱さを弱さとして認め合い、弱さを絆にして共生する新たな私たち家族の再生は
誰でもない夫が教えてくれた生き方だったのだと今ではそう思っている。


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K子さんの命日に
- 2007/09/17(Mon) -

今日は夫の前妻のK子さんの命日です。
あれからもう12年が経ちました。あっという間でした・・・。
 
今日はK子さんの闘病生活を、
もう一度振り返って見たいと思いました。


そして、東京のお兄ちゃんも、大阪の次男も、私や夫や娘にも
生涯忘れることなく、毎年のこの日、9月17日にK子さんを偲んで、
たとえどんなにお互いが離れて生きていようとも、
K子さんの生涯を語り継いでゆきたい、それが私の願いです。
 
 
「私が聞いていること」
 
K子さんは、H6年1月頃から体調を崩し、
病院へ行ったところ、「乳がん」と診断されたそうです。


3月11日に入院・手術。
この時は、術後の経過も大変良くて、順調に回復し、
もう3月中旬には退院されたといいます。


しかし、H6年の11月に再発。
この時、「世界的に10例もないほど珍しい病気で、
放射線も抗がん剤も効かないため、もってあと3ヶ月の命」
と医者から宣告されたとか・・・。


次男が言うのには、
H6年の7月の検診では何も見つからなかったのに、
3ヶ月ほどの間に再発してしまっていたようです。


それからは、仕事に行ったり休んだりしながら、
足繁く通院し、懸命に病気と戦ってこられました。


夜中、眠れなくて(痛くて?)、一人目をつぶって箪笥にもたれ
一晩中起きていたことも何度かあったとか。


自由にお風呂に入れなくて、お兄ちゃんのマンションへ
次男が車で連れて行って入れていたこと。
車椅子で外出したこともあったそうです。


どんな思いで病気と戦ってこられたのか・・
私には到底計り知れません・・。


私は泣き虫で、辛いときには子供の様にワーワーと泣き喚く、
あかんたれの見本のような人間ですが、
K子さんは、何にも・・・
当時一緒に暮らしていた次男にも
なんにも言わない人でした。
一人で黙って病気と戦い続ける人でした・・・・。


それがK子さんの
苦難に満ちた人生を生き抜く姿勢そのものだったのでしょうね。


当時、K子さんが通院されていた病院の診察券や、
メモのようにして気持ちが書き記されている数冊のノートも
大切にとってありますが、いろんな思いが書かれていました。


「ああ、本当に、私たちは同じ様に恵まれない境遇に生まれ育ち、
同じ女として、同じような思いで、同じように運命と
必死に戦ってこられたんだなぁ。
最後の最後まで、K子さんは
一人の人間として懸命に戦ってこられたんだなぁ。」
と、そのノートを見ては何度も何度も涙しました。
 
H7年7月、いよいよ様態が悪化し再入院。
2ヶ月ほどの入院でした。


その年の3月には、長男であるお兄ちゃんの
一人目の子どもが生まれていて、
病院のベッドの上で
その子を抱いて微笑んでいるK子さんの写真が、
今も私の机の上に飾ってあります。


「初孫を抱く事ができて本当に良かった」と
息子たちもいつも言っていますが
私も本当に、心からそう思います。

 
そして・・9月17日、
次男は嫌な胸騒ぎがして仕事が手につかなくなり、
早めに仕事を終えると大急ぎで病院へ駆けつけました。


14時頃にはまだ意識もはっきりしていたそうです。


けれども、19時34分、死亡診断書の時間とは違うそうで
次男が自分の腕時計で時間を確認したそうですが、
K子さんは3ヶ月と宣告されていた命を
1年近くも生き抜かれ、静かに眠るように旅立っていかれたのです。
 
当時、台風の影響で、葬儀が9月20日まで延びていました。
埼玉の夫の姉から私に、
「K子さんが亡くなった」と電話連絡がありました。


夫には知らせない方がいいと言われました。
夫の実家の兄や親戚一同も、全員が葬儀へ行くことには反対でした。
余りに恥知らずだからと、皆に反対されたのです。


でも、K子さんに会える最後の機会に、
ためらってはいけないと思いました。


お顔を見せて頂いて、既に遅いけれど、
それでも最後に心からの謝罪をしてお送りしなければ、
生涯悔いることになると思いました。


誰に何と言われようと、誰にどんなに罵られようと、
何としても夫に、K子さんのご葬儀に行って欲しかったのです。


夫は、悩みぬいた末に長男に電話をしました。
「子どもたちが来てもいいと言ってくれれば・・・」と。
そして、長男が「ぜひ来て下さい」とその場で決断してくれて・・。


17年と2ヶ月。長い長い年月を経て、
K子さんの葬儀で、K子さんと父と二人の息子が
やっと再会することができたのです・・。
 
K子さん、
あなたは今の私たちの状態をどう思っていらっしゃるかしら?
少しは安心して下さっているかしら?


「やっと、夫も次男も、
真面目に心穏やかに暮らせるようになったみたいだけど、
そうなったところだから、まだまだ、油断したらアカンよ、頑張りや!」
そう言われてる様な気がしています、私は。
 
恵まれない境遇に生れ落ちて、
幼い頃から苦労の連続の人生を生きながらも
いつも三つ編に編んだ頭を揺らしながら、
朗らかに大きな声で笑う、皆の人気者だったというK子さん。


どうか安らかに眠っていて下さい。
いつまでも心からの祈りを捧げています。


                          合掌

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夫について考える⑬アルコール依存症への系譜
- 2008/04/03(Thu) -
私に強く出られると、急におとなしくなるのも夫の特徴の一つです。

私が少しでも夫に頼るような態度を見せたり、
少しでも弱った姿を見せたりすると、
即、再び支配下に置こうとします。

それは日常的に、その瞬間瞬間に、敏感に感じとれます。

しかし、「一定の距離を保ち続ける」という私の態度さえゆるがなければ、
「もう支配できないかもしれない」と感じ、
夫もまたそれなりに安定してくるのです。

かつて、夫も私も、自分ひとりでは自律できないため、
支えとしての相手が必要だったのでしょう。

そして、自律できない私たちは、常に心に怒りを抱えていました。
この怒りをぶつけ合うためにも、相手が必要だったともいえます。

私たちは二人とも、
自分の生育過程で親から愛情を受けられなかったという過去や、
「自分は親に愛されていない」と感じる瞬間に
何度も直面した過去を持っているのです。

そのため自分の存在そのものに不安を感じ、
それを埋めようとして肥大した自我は、
自分の能力を超えた金や仕事、地位や名誉などに執着し続け、挫折し続けました。

私の場合は、報われることの少ない芸術や宗教といった、
目に見えない幻想へのしがみつきだったように思います。

そして、こうした挫折を続ける無力な自分を否認しようとして、
自分を受け止めてくれる相手(=私)に対し、
かつて受け止めてくれなかった母親への怒りを、無意識的にぶつけてしまう。

そして、再び強烈な幻想を手中にするためには、
夫にとって、どうしてもアルコールが必要だったのです。

ぶつける相手のいない私は、怒りを向けられる恐怖と不安から、
慢性的なウツ状態へと落ち込んでいく・・・・

夫は自分が大事に扱われてこなかったことからくる
「深い自己愛の傷つき」を持っているので
少しでも低く扱われたと感じると、すぐに爆発する。

家の外では人には認められたくてたまらないから、
仕事相手や仲間には人当たりがとてもいい。

「年上で、アンナに優しい旦那さんに甘やかされて、幸せやねえ」
妬みを込めてどれほどそう人に言われ続けたことか。

でも、一旦内に入ってしまったら、
私には、自分の全てを認めさせなくては気がすまないために、
暴力や異様な自己卑下などで、私を服従させようとして
そのことに執着し続ける・・・・

夫に何度も殴られましたが、
いずれもそれほどの大怪我を負うほどのものではありませんでした。
夫にとっての暴力は、支配のための手段であって、
傷つけること自体が目的ではなかったからです。

夫が「尋常ではない」と気づき始めたのは
やはり宗教に疑問を持つようになった7年ほど前からでした。

その一方で、
「私しか、夫を見捨てず共に生きることはできないのだ」
という思い込み(宿業論)も捨てられませんでした。

また、私が別れを考え始めているのではないかと、
なんとなく感じ始めた頃から、急に優しくなったり、
今まで決して言わなかった
「ありがとう」や「ごめんなさい」を言うようになったり、
泥酔して暴れる回数もぐっと減ったりもしました。

「これからは良くなっていくのかもしれない」
そう一瞬でも思うことが度重なってゆきました。

夫の中に自分と同じような孤独を見て、
夫を救うことが自分を救うことにつながると感じる。
自己投影しているのです。

こうした私の心の弱さが、
さらに夫をエスカレートさせていたのです。
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私と同じように
- 2009/04/20(Mon) -
今朝の午前5時前の空。
本当はもう少し明るく感じたんですが・・・・。



夫から数冊の本を、「読んでみたら?面白いよ」と薦められました。
昨夜部屋に戻ると、机の上においてくれていました。

hatu2.jpg

今は藤沢周平がお気に入りのようです。

夫は、お酒を飲まなくなってから、読書にはまっていて、
休みになると、車で20分はかかる古本屋へと、半日は通います。
そして2冊ほど買ってきては、毎晩寝る前に、
部屋でごろりと寝っころがって読んでいるようです。

夫専用の本棚。

hatu4.jpg

hatu3.jpg


「2~3ページで寝てしまうんやけどな(笑)」
そんなことを言いながらも、「今日はいいところやから」と言って
夕食が終わると、いそいそと自分の部屋へ急いだりもしています。

「目が悪くなってきていて、しんどない?」と言うと、
「いや、これがまたなかなか楽しいんや」そう言って笑いました。

夫の心は、本当に、生まれて初めて、
「落ち着いた静かな暮らし」というものを知ったのでしょう。

この私と同じように・・・・。

穏やかに、幸せそうに笑う夫の顔を見るたびに、
「これでいいんだ、これでよかったんだ・・・・」そう思って、胸が熱くなります・・・・。

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