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今、改めてアダルト・チルドレンを学ぶ①
- 2007/08/22(Wed) -

webちくま・臨床心理士・信田さよ子氏 
「虐待する親の姿ーアダルト・チルドレン」より抜粋


親子の役割逆転


1980年代半ばにアメリカで AC ということばが広がるきっかけになった
私は親のようにならない』C. ブラック著、斎藤学監訳。


ひとことでいえば、
親の機能を果たさない両親を子どもが支えるという役割逆転によって、
家族に適応していくという道である。


ブラックはそのパターンを
(1) 責任者、(2) 調整役、(3) 順応者と分類している。


母親の相談にのる、愚痴の聞き手になる、
父の介抱をし母との間を取り持って、
きりきり舞いをしながら弟妹のめんどうをみる、
学業に秀でることで一家の希望の星になる・・・


その子たちは親からはもちろん、先生や近所のひとからも、
しっかり者のいい子と評価されながら育つ。


経済的・物理的に支えるのではなく、
情緒的・心理的に子が親を支えるという点が強調されるべきだろう。


つまり親の期待をいち早く実現することによって、
子どもは親の情緒を安定させる。


親は子どもに依存しているのだが、その自覚はない。
それが当たり前だと思っているからだ。


子どもは自己の欲望より親の欲望を読み取ること、それを満たすことを優先する。
これは、自我意識が形成される以前に習慣化され、当たり前になっている。


思春期を過ぎて「生きづらさ」「対人関係の行き詰り」を感じたとしても、
親の欲望こそ満たされなければならないという命題は血肉化していて
意識に上ることすらない。
その問題点が浮上するのは成人後だ。


思い返せば、ずっと親の期待を満たすためだけに生きてきた。
 対人関係でも絶えず周囲の期待に添うことばかりを優先させてしまう。
 自分の欲望、意志を自覚することに大きな罪悪感がある


これらは AC のひとたちの
カウンセリングで繰り返される発言のほんの一部である。


親を支えるために身に着けたサバイバルスキルが、
皮肉にも成人後の不適応を生み出してしまうというパラドックスが、
そこにはみられる。


ただただ必死に生きてきたことは、
責められるどころかむしろ敢闘賞ものなのに。


では、それはいったい誰の責任に帰せられるべきなのだろう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


現在は、娘になにがしかの問題点らしきものは感じていないが
大変な家庭で育たざるをえなかった娘の心情を、少しでも深く理解してゆくために
そして、被害者であり加害者でもある、自分自身を見つめるために。


もう一度、学び直してみたい。


 


 

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今、改めてアダルト・チルドレンを学ぶ②
- 2007/08/23(Thu) -

カウンセリングルーム:Es Discovery より


自己愛(self-love)が発達早期の家族関係を通して傷ついた場合に、
アダルト・チルドレン(Adult Children)という概念が用いられる。


アダルト・チルドレンは、
見捨てられ不安に根ざす他者への強い依存性支配性を持っている点や
「自他の区別の認識が弱い」という精神的自立が困難な特徴を見せる。


アダルト・チルドレンは、
機能不全家族(被虐待的環境・愛情剥奪環境)で育てられて大人になった人』
という意味で用いられ、
元々は、アルコール依存症や薬物中毒の親によって
被虐待的な家庭で育てられてトラウマを負った
ACOA(Adult Children Of Alchoholics)という意味で用いられていた。


ACOAの場合は、心理的な愛情や保護の欠損という観点よりも、
アルコール依存症である親の情緒不安定(感情の爆発)
身体的虐待の問題が重視されていた。


アルコールや薬物(麻薬)、ギャンブルへの嗜癖がある家庭では、
職業活動が不安定で家庭生活が荒廃しやすく、
DV(ドメスティック・バイオレンス)のような配偶者間暴力も起こりやすくなる。


子どもが母親(父親)へのDVやDV後の打ちひしがれた様子を目撃することは、
子どもが直接に身体的虐待を受けたのとほぼ同等の心理的ダメージを与えるが、
家庭内で暴力(パワー)による支配(秩序)が正当化されていると、
子どもは『支配・服従の二元論的な人間関係のパターン』を
間違って学習しやすくなる。


家庭内部における暴力行為を容認する空気があることは、
家庭が誰も干渉できない治外法権であるという幻想的な錯覚を生み出し、
夫婦間に実力主義的な上下関係があるのが当然で
子どもは親の満足のために従属的に存在しているという認知の錯誤をもたらす。


この家族関係に対する認知の錯誤は、
思い通りにならない配偶者を暴力で屈服させようとするDV(配偶者間暴力)や
自分の満足や期待に叶わない子どもを痛めつけたり
無視する児童虐待につながる恐れがある。


一方で、共同体の生産能力が低く
医療技術(権利意識)が発達していない多産多死の社会では、
子どもは親(帰属共同体)のために存在するのであり、
『愛情(保護)の対象』ではなく『命令(使役)の対象』と見なされ、
身体への虐待や精神への侮辱、
労働力の搾取などが日常的に行われてきた歴史がある。


産業革命によって経済力が飛躍的に拡大し、
子どもの基本的人権が意識され始め、
児童を酷使する工場労働・家内労働が法律で規制されるまでは、
子どもに進んで保護・教育を与えようとする親は少数派だった。


こうした時代には、みんながアダルト・チルドレンとも言えるが、
アダルト・チルドレンは
家族関係の被害者としての自己認識
(普遍的な人権思想に紐付けられた養育者の保護責任)』に根ざしているので、
子どもの権利自体が存在しない社会では、
そういった自己認識を持つ者自体がいなかった。

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今、改めてアダルト・チルドレンを考える③免責性と過剰な自己責任
- 2007/08/25(Sat) -

・・・・・webちくま・臨床心理士・信田さよ子氏 
    「虐待する親の姿ーアダルト・チルドレン」より抜粋・・・・・


免責性と過剰な自己責任


AC に対しては、さまざまな評価や批判が与えられてきた。
その論点のほとんどが
「ひとのせいにする」「親のせいにする」という点に絞られていた。


「あなたが悪いわけではない」


流行語になるずっと前から 、AC のひとたちにとって
その一言がどれだけ必要とされているかを肌で感じてきた。
被虐待児への対処で最初に必要とされることばが
「あなたが悪いわけじゃない」である。
幼児と同じことばが、なぜ AC のひとたちに対しても必要なのだろう。
その秘密は、幼児的万能感が形成する世界観にある。


3歳から6歳までの幼児期、
子どもたちはあらゆるものの中心に自分がいるという天動説的世界を生きる。
せみが鳴くのも、太陽が東の山から上るのも、自分が動かしているとすら考える。
快と喜びの経験は「自分がいい子だから」という因果・意味を形成し、
世界は秩序立つ。
そこから「よい自分」「生きていい自分」の核がつくられていく。


いっぽう目の前で、父が母を殴り、母が泣き叫ぶ場面に遭遇すると、
子どもの足元の世界はまっぷたつに割れ破壊されるだろう。
両親が繰り広げる修羅場は、どうしていいかわからないカオスである。
混乱の中で子どもは「自分が悪い子だからこんなことが起きる」と思う。
自分を否定する残酷な因果律だが、
それによって世界は説明可能となり、秩序を回復する。
「自分が悪い子だから」と考えれば、説明不可能な世界など存在しなくなる。


幼児期に刻印された自己認知は、
父と母の関係が突然平和で穏やかなものに変貌しない限り、
そのまま維持されるだろう。


言い換えれば AC のひとたちは、
「自分のせいだ」と考えることでしか世界を秩序立てられなかったのだ。


一種のサバイバルスキルとしての否定的自己認知は、
いっぽうで意識の底流に「生きている価値などあるのだろうか
この世の空気を吸っていてもいいのだろうか」という問いを胚胎させる。
生き延びるためのスキルが自分を否定するというパラドックスが、
AC のひとたちの生きづらさを形作っている。


この自己否定は、過剰な罪悪感・責任感につながることはいうまでもない。
AC のひとたちがどれほど親を支え、責任を感じてきたかの描写は省略するが、
親はそのことにほとんど無自覚だ。


「ひとのせいにする」という批判はたしかに一理あるが、
AC というアイデンティティを受け入れるまでに
背負いすぎた責任の重さを思えば、
まず免責性の承認が必要なのだと思う。


だから「あなたに責任はない」と免責されることが、
まるで干天の慈雨のように感じられるのだ。


これまでの人生で他者から一度も言われたことのないことばによって、
AC のひとたちはいったん過剰な荷を下ろすことができる。


その瞬間を「世界が違って見えた」「謎が解けた」
などと表現するひとがいるのは、
自己責任をめぐる劇的なパラダイム転換が起きるからなのだろう。


この転換点を経ることで、
はじめて「適正な」自己責任がみえてくるのだ。

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今、改めてアダルト・チルドレンを考える④親の加害者性
- 2007/08/27(Mon) -

webちくま・臨床心理士・信田さよ子氏 
「虐待する親の姿ーアダルト・チルドレン」より抜粋


被害者としてのAC・加害者である親


自分に責任はないという免責性は、
これまでと反転した自己認知であり、
そのまま親に責任があるという「親の加害者性」につながる。


「親のせい」でこんなに生きづらいのだから、自分は親の被害者である、
AC はこう主張している。


おそらく AC 批判のもうひとつのポイントは
親の加害者性」を含意している点にあったのだろう。
被虐待児としてでなく、成人後に親を責めることに対して、
日本の社会はそれをまったく容認してこなかった。
親を許すことが成熟の証しとすら考えられてきたのだ。


AC の主張は、日本の家族のタブーに対する挑戦だった。


被害者の視点で、加害者としての親を語ることは、
しかしそれほど簡単なことではない。
中年になるまでは「親だって理由があったのだろう」
「私のために親はあんなことをしたんだ」と親をかばいつつ
親の立場から自分を責めてきたのだ。


そのひとたちが、一転して子どもの立場から、
被害者としての経験を語った後に、
強烈な自己嫌悪や罪悪感にさいなまれることは珍しくない。


根深くすみついていた長年の認知が変わるときは副作用が生まれる。
憎しみや怒り、恨みといった親に対する感情は
すべて肯定されなければならない。
中年になっても忘れられない親の言動に対して、
謝罪を求めたい気持ちは当然だ。


問題はその表出の方法である。
親が存命だからといって、
親に向かってそれを投げつけることは単なる復讐だろう。


多くのクライエントから「親にあやまってほしい
あやまらせたい」という言葉を聞いたが、私は賛成しなかった。


その希望はほぼ裏切られるからだ。


親は奇妙なほど AC のひとたちの記憶している行為を忘却している


加害者は加害記憶を喪失する
これは私が AC のひとたちから得た教訓のひとつである


それどころか、「今頃何を言ってるのか」
「いつまで甘えたことを言ってるんだ」
逆切れされて傷つけられたりする。


親は愛情からやった行為だと思っており、
加害者としての自覚などないからだ。


常識も、美しい家族像も、すべて親に与している。


だから、親が変わる期待など捨てるほうがいい。
私は、そう思っている。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「加害者は加害記憶を喪失する」


母に限らず、夫もまたその通りの反応でしかなかった。


かつて、自分にとって唯一の救いは
「心からの謝罪」であったにも拘らず
そのことに少しでも触れると逆切れされ、
何度でも、更に傷つけられるのが事の成り行きのオチであった。


それでも私の謝罪への欲求は強く
まるでそのことだけが
苦しみに耐えて生きてきた
自分自身の
「存在証明」そのものであるかのような強烈さで
つねに私を襲い、苦しみ続けた。


許したのか?諦めたのか?受け入れたのか?
ただ長い時間の経過のなかで、いつの間にか風化していったのか?


今の私にあの根深く棲みついていた憎しみも怒りも恨みもない。


ただ私は思う。


許そうと許すまいと、そんなことを当事者でもない人間が
偉そうにとやかく言う資格など誰人にも欠片もありはしないと。


生涯、憎み怒り恨み続けたって、当たり前じゃあないかと。


時に、「自分はすでに親を乗り越えた」などと偉そうに
かつて同じ苦悩を生きた人間に向かって優越した目線で見下し
自らの成熟度を誇示しようとする哀れな人間もいる。


誰に何が分かるというのか。


私と人とが違うように
同じような虐待の事実を生きてきても
人と人の間に横たわる心的現実は
全く異質な体験として厳然と存在しているのだ。


許して生きようが、生涯許さず生きようが
どこまでも自由であり、至極当然なことであり
今更なんで「成熟度」などと言う言葉に
強迫される必要などあるものか。


私はそう思っている。

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今、改めてアダルト・チルドレンを考える⑤権力に満ちた親子関係
- 2007/08/28(Tue) -

webちくま・臨床心理士・信田さよ子氏 
「虐待する親の姿ーアダルト・チルドレン」より抜粋



親子関係は権力に満ちている


「あなたが悪いわけじゃない」
という免責性を他者から承認されることで、
ACのひとたちは過剰な自己責任から解放される。


それはそのまま、責任を育児の主体である親に返すことを意味し、
ACのひとたちは自分を被害者、親を加害者として認知する。


犯罪の加害者と異なる点は、
親ごころ、良識、愛情といった疑いもない「正義」
親という立場には付与されていることだ。


親は、自らを加害者として認知するどころか、
愛情深く正しいしつけをしたのだと思っており、
それに子どもが異を唱えることを許さない


「親は子どものことを思っていて正しい」のだから、
家庭における「状況の定義権」は親に属している。


M.フーコーは「権力とは状況の定義権である」と述べた。
ACのひとたちはそのような親の権力に真向から立ち向かう。


「親のいうことを聞け」という全体主義的権力であれ、
「お前のためなんだから」というパターナルな権力であれ、

いずれも権力であることに違いはない。


ACは親子関係を表現する語彙に「権力」を加えたことになる。


自分と親との関係を被害・加害というパラダイムで、
権力関係というフィルターを通してとらえなおすことは
それほど容易ではない。


「親のせい」にするのと同じくらい、
常識や良識からの激しい反発を招くだろう。


正義を付与された親に対する反逆を意味するからだ。


ACと自己認知することは、
このように親子観を転換すること、
反常識の立場に立つことを意味する。


カウンセラーである私も、
親と子のいずれの立場にあなたは立つのか
表明を厳しく迫られることになる。


「親だってそれなりの理由があったのでしょ」
という一見中立にみえる意見は、
実は親の依拠する良識そのものであり、
親=加害者側に立つことを意味する。


私がカウンセリングの場で
徹底して目の前に座っている
クライエントの立場に立つことにしているのは、
このような理由からである。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


権力は構造的な特質を持っている。


「人々のために」との「正義」を振りかざしながら
一部の、優越性をもっていると勝手に思い込んでいる人間だけで

自分たちの思う方向へと人々を操作し、コントロールしようとする。


そのために何重もの階層化を目論む。


人はそこへ入ることは望んでも、自ら降りることはしない。


権力の側の人間になることを無意識的に欲求しているのだ。


そこに真の人間・間の対話など成立するはずもないのに。


そこにあるのは支配ー被支配の関係性でしかないのに。


教育しようとでもいうのだろうか?


教育もまた権力であり、陰湿な暴力性を秘めているというのに。


「人を選ぶという傲慢」 「人を教育しようという不遜


そんなの、私は真っ平ごめん。


私は決して権力の側には立たないことを、自分自身の生き方の主軸に据えたいと、
かの宗教団体と決別して以来、
常にそう思って生きている。

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今、改めてアダルト・チルドレンを考える⑥被虐待経験の証言者  
- 2007/08/29(Wed) -

webちくま・臨床心理士・信田さよ子氏 
「虐待する親の姿ーアダルト・チルドレン」より抜粋


被虐待経験の証言者としてのアダルト・チルドレン


虐待ドメスティック・バイオレンスも、家族内の暴力は親密だからこそ起きる
いっしょの空気を吸い、同じ食べ物を食べ、時には体を接触させるからこそ起きる。
これが市民社会の暴力犯罪と大きく異なる点だ。
加害者を犯罪者として処罰する厳罰主義だけでは対応しきれないものが残る。


虐待された子どもが児童相談所の介入によっていったん親と分離されたとしても、
親権停止処分が下されない限り、法的には親子であり続ける。
分離された「その後」の親子関係をどう構築していくのかはまだ手探りの状態だ。
そのためのヒントを与えてくれるのがACである。
虐待被害者としてのACを出発点にして、その後の親子関係を考えてみたい。


私は、35歳以上の女性を対象としたACのグループ、カウンセリングを
11年にわたって実施している。
親が高齢化もしくは死亡してはじめて、
親との関係を語り再考し整理したいという女性が多いからだ。
累計すれば100人を超えるACの女性たちとのかかわりをとおして、
私は多くのことを学んだ。
 
彼女たちは、いわば「被虐待経験の証言者」である。
現在各地で起きている子どもの虐待事件をみても、
ニュースのテレビ画面に映る3歳の子どもに、
アパートでいったい何が起きていたのかを証言することはできない。
虐待加害者である親の証言内容は、子どもの経験とはかけ離れているだろう。
ましてその子どもが死んでしまえば、被害を証言する存在はなくなる。


アウシュビッツのナチス強制収容所で何が行われていたかが、
生き残ったひとたちの証言によって初めて明らかになったように、
閉ざされた家族の中でどんなことが起こっていたかは、
ACのひとたちによって時を経て初めて語られる。
それは、今から20年~30年以上前の児童虐待のなまなましい証言なのである。
 
幼い頃からの父や母の記憶をたどることで、
生まれて初めて言語化された被虐待経験の数々が、グループの場に満ちる。


「中絶できる時期を逃したから産んだ」と繰り返し言い聞かせる母親、
思春期の彼女たちに対して性器を露出し触らせる父親、
包丁で自分を刺してくれと頼む兄、日常的に殴る父・・・。


11年のあいだに、私はありとあらゆる虐待の種類を聞いた気がする。
親は子どもに、本当にやりたい放題だ、と何度思ったことだろう。
 
家族の中の子ども、それも小さな女の子は権力構造の末端に位置するので、
絶えず父、母、兄、姉からの支配にさらされることになる。


学校からの帰り道だけが、安心できる時間だったという45歳の女性もいた。
彼女たちの親は、テレビで見る虐待する親とはかけ離れている。
外見は、社会的に尊敬される立派な職業人の父、
教育熱心な、手作りのおやつを欠かさないよき母
だ。


彼女たちの経験との落差があまりに大きいので、
自分の感じ方がまちがっているような不安におそわれる。
自分の感覚への疑いを生み出す。


その親たちは、もっとも弱い立場の、
誰よりも自分を信じている(信じるしかない)存在の子どもに対してだけ、
人生に対する呪詛や恨みを全開させたのだろうか。
負の部分を子どもに放出し吸収させることで
かろうじて日常生活を成り立たせていたのだろうか。

 
グループ・カウンセリングは10回で1クールと区切られている。
もちろん何クール参加してもいいのだが、
10回目に生育歴を語ることが参加者に義務付けられている。


その理由は、
「私とは『自己物語』(self-narrative)である」
「人は物語によって生きる、あるいは物語を生きる存在である」
というナラティヴ・セラピーの考え方に私が深く影響を受けたからだ。


それをグループ・カウンセリングに組み込んで、生育歴を発表することにした。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


閉ざされた家族の中でどんなことが起こっていたのを
自分自身がはっきりと認識し、言語化出来るようになるまでには、
本当に長い道のりが必要だった。


私もまた、家族の中では最も小さい存在として
祖父、祖母、母、叔父、姉・・・
絶えず家族の支配にさらされ、排除され、
家族の安定のためにはどんな風にでも利用されてきた。


乳幼児期と小学1年生の時には、親の放置が原因で
死の一歩手前まで行ったことがあったにも拘らず、
まるでその原因が私自身の落ち度にあったかのように
長い間言い聞かされてきて
私は居た堪れない恥ずかしさと申し訳なさに打ち萎れていたのだから。


そんな私にとって
自分の問題を考える時に、最も障壁となったのが
「自分の感じ方」がまちがっているような不安や
拭いようもなく湧き上がってくる「自分の感覚」への疑いに襲われることだった。


こうして同じような状況が、自分が「関わる場」では常に繰り返されていく。


若い頃に関わった政治的な団体や劇団内部でも、
夫との関係や、あれほど長く活動した宗教団体でも、
子どものためにと長年携わったPTAや
自己の問題を見つめるために10年近く通ったカウンセリングを学んだ組織でも・・・・


もっとも弱い立場に甘んじざるをえず、支配ー被支配以外の、
対等な対人関係を学ぶ機会を失ってしまった存在である私に対してだけ、
人は、自分の抱える呪詛や恨みを全開させたのだろうか?


私という、自ら支配される立場に無意識的に身を置こうとする存在に
負の部分のすべてを放出し、吸収させることで
かろうじて自分の問題から目をそむけ、危うい自己を成り立たせていたのだろうか?


私とは『自己物語』(self-narrative)である


このブログは、私の「自己物語」を再構築するためだけにあるのかもしれない。


急がなきゃ!!遅刻だーーー!!

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今、改めてアダルト・チルドレンを考える⑦加害者の像を結ぶ  
- 2007/08/30(Thu) -

webちくま・臨床心理士・信田さよ子氏 
「虐待する親の姿ーアダルト・チルドレン」より抜粋



生育歴はACである自分の物語を探り言語化して
グループの他者に発表することであり、
それは「当事者研究」そのものだ。


開始後しばらくして奇妙に感じたのは、
自分の生育歴を語れないひとがいたことだ。
どうしても親の生育歴になってしまうひとが何人もいた。
なぜだろうと考え、私は気づいた。


私の親はなぜあのような親だったのか?」という
シンプルな問いに対する答えを出さずに、
その親から生まれ育てられた自分の生育歴を語ることはできない。


なぜならACのひとたちにとっての生育歴とは、
親との関係そのものなのだ。


自分の欲望より親の欲望を優先させることで生きてきたのだから、
親の姿が鮮明でなければ、
いっぽうの極の自分を描くことはできないのだ、と。
自分の生育歴は、親の謎解きとセットなのだった。


彼女たちは生育歴の発表に備えて親の謎を解くために、
親の生家や親戚を訪れインタビューを試みる。
親のルーツをたどり、親の生きた時代を知り、
父と母の結婚のいきさつを探ることで親の像が立体的に浮かび上がる。
すると、謎はさらに祖父母の世代にも及ぶ。


こうして、発表される生育歴は昭和一桁から大正、明治にまでいたる
壮大な日本近代の家族史ともいうべき内容となる。


特に印象的だったのは、50代以上の女性たちが生育歴で語った、
第二次世界大戦から復員した父が
家族のなかでどれほど苛烈な暴力をふるったかという事実だった。


自分の生育歴は親の謎解きとセットであること、
親=加害者の像が結べなければ
AC=被害者である自分の物語がつくれないということ。


このことは、虐待ばかりでなく、さまざまな被害者に対するケアのありかた、
被害者の立場からどのように脱け出すかについて、
大きな示唆を与えてくれるように思われる。


流行語としての生命は終わったかもしれないが、
アダルト・チルドレン(AC)という言葉は
今でも私にとっては大切な存在である。
加害・被害の問題を考えるための宝庫といってもいいだろう。


(この項終了)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「私の親はなぜあのような親だったのか?」       


私にとって問いの始まりは
「私はなぜこんな人間であり、こんな愚かな人生を歩んでいるのか?」
という、悲痛な叫びであった。


高校・大学は通信教育、書物に答えを求め、
カウンセリングや臨床心理学、精神分析、精神医学・・・・と
果てしない道をただ一人、ぽつねんと歩いてきた。
対人関係が困難な私は、学校教育も、師も、友さえほとんど持つことは出来なかった。
たとえ誤った方向であろうとも、自分を信じてひたすら前に進むしかなかった。


うっすらと認識が生まれてくるに従って、やはり自然とここに書かれているように
母のこと、顔も知らない父とのこと、その生い立ちや二人の結婚生活の有様、
父母ともの祖父・祖母のこと、兄弟、従兄弟たちの行く末、
さらに遡って曽祖父・曾祖母、その子どもたち、
彼や彼女たちを取り巻いていた知人・友人、
彼らが生きた時代、社会生活・・・・等々
実に多くの人たちの人生の聞き取りをしていた。


「気が済むまで」・・・・終わりはそこにしかない。


それは止まることを知らず
夫の生育歴や夫の親兄弟、祖父母、友人関係、新潟の昔話の収集
かつての妻の生育歴や残してきた子どもたちとの思い出・・・・


すでにそれらの人々は、
いつしか人生を共有した懐かしく恋しい肉親のような存在となっていった。


来月、9月17日は、夫の前妻の亡くなった日である。
毎年この日は、彼女の苦闘の人生を家族全員で偲ぶ日なのだ。


(本日、左足首を捻挫し、職場から早退)


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