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V,E,フランクルの言葉①
- 2006/04/25(Tue) -

V.E.フランクル「死と愛」より


苦悩の意味


人間は苦悩の中に成熟し、苦悩において成長するのであり、恋愛の成功が彼に与えたであろうものよりもより多くのものを苦悩は人間に与えたのである。


人間を苦しめる運命は先ず…もし可能ならば…新たに形成され、そして次に…もし必要ならば…耐えられることによって意妹をもつのである。そしてその場合われわれは、この単に耐えることもなお内在的な意味をもっていることも忘れてはならない。


「行動や忍耐によって高貴化できないいかなる状態も存しない。」(ゲーテ)
そして耐えるということの中にも何らかの意味で或る「業績」が存するのであるといえるが、もとよりそれは避けえない運命に対する真の忍耐であらねばならず、その場合の苦悩は意味に充ちている。苦悩のこの道徳的な集積としての性質は普通の人間の直裁な感覚にとっても疎遠なものではないのである。


それまでその生涯を「形而上学的軽率」ハシエーラーの中にすごし、多くの可能性をやりすごしてしまった人間から、最後の高貴なものを取り出すことができたこともあるのである。
===すなわち全く生活に甘やかされた或る若い女性が、或る日思いがけずも強制収容所へ送られた。そこで彼女は病気になり、日に日に衰弱して行った。死の数日前に彼女は文字通り次のように述べた。「私にこんなに辛くあたった運命を私は今となっては感謝しております。以前のブルジョア的な生活で私は確かにあんまりだらしのない人間でした。私は閨秀作家気取りで真面目とはいえませんでした。」近づいてくる死を彼女はよく意識していた。彼女の横たわっていた病舎の寝台から窓を通して、ちょうど花の咲いているカスタニエンの樹を見ることができた。そして彼女の頭のところから二本の蝋燭のような花をつけた一本の枝が見えた。「この木は私の孤独における唯一の友です」と彼女は言った。「この木と私は話をするのです。」一体彼女は幻覚をもつているのであろうか。恐らく譫妄状態なのだろうか。彼女は樹が「答えてくれる」というのである。しかし彼女は譫妄状態ではなかった。それではこの奇妙な「対話」は何であっただろうか。花咲く樹は死につつある女性に向って何を「言った」のであろうか。「樹は言ったのです…私はここにいる…私はここにいる…私は生命だ、永遠の生命だ…」

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V.E.フランクルの言葉②
- 2006/05/01(Mon) -

「それでも人生にイエスと言う」より


たしかに、模範になる人間はわずかです。 自分の存在を通して働きかけることができる人間、またじっさいそうするだろう人間はわずかです。私たちの悲観主義はそれを 知っています。しかしまさしく、模範になる人間が少ないということが、現代の活動主義の本質をなしているのです。 まさしく模範になる人間が少ないために、その少数派はとほうもない責任を担っているのです。 

ある古い神話は、世界の成否は、その時代に本当に正しい人間が三十六人いるかどうかにかかっているといいきっています。たった三十六人です。消えてしまいそうなぐらい少ない人数です。それでも、全世界が道徳的になりたつことが保証されるのです。しかしこの神話はさらに伝えています。こうした「正しい」人たちのうちのだれかが、それとして認められ、まわりの人々、いっしょにいる人間たちにいわば「見破られる」と、そのとたんにその人は消えてしまうのです。「引退」させられるのです、その瞬間に死ななければならないのです。これはどういうことでしょうか。こう表現しても間違いではないでしょう。人々は、そういう人たちが模範となって自分を教育しかねたごと気づくと、「いやな気持ちになる」のです。人間は、教師口調で叱られたくないものなのです。


*旧約聖書と並ぶユダヤ教の聖典である『タルムード」に「日毎に神の臨在に接する三六人の敬虔者」のことが語られている。またその後の伝説によれば、これらの敬虔者は、謙虚な隠れた義人として、百姓や職人などの目立たない生活を営みながら、その営みの背後に隠されている義によって、この世界の存立が支えられているという。

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V.E.フランクルの言葉③
- 2006/05/06(Sat) -
あるとき、生きることに疲れた二人の人が、
たまたま同時に、私の前に座っていました。
それは男性と女性でした。
二人は、声をそろえていいました。

「自分の人生には意味がない」
「人生にもうなにも期待できないから」

二人のいうことはある意味では正しかったのです。
けれども、すぐに、
二人のほうには期待するものがなにもなくても、、
二人を待っているものがあることがわかりました。

その男性を待っていたのは、
未完のままになっている学問上の著作です。
その女性を待っていたのは、子どもです.。
彼女の子どもは、
当時遠く連絡のとれない外国で暮らしていましたが、
ひたすら母親を侍ちこがれていたのです。
 
そこで大切だったのは、カントにならっていうと
「コペルニクス的」ともいえる転換を遂行することでした。

それは、ものごとの考えかたを180度転換することです。
 
その転換を遂行してからはもう、
「私は人生にまだなにを期待できるか」
と問うことはありません。
いまではもう、「人生は私になにを期待しているか」
と問うだけです。
人生のどのような仕事が私を待っているか
と問うだけなのです。

ここでまたおわかりいただけたでしょう。

私たちが「生きる意味があるか」と問うのは
はじめから誤っているのです。

つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。
人生こそが問いを出し、
私たちに問いを提起しているからです。
私たちは間われている存在なのです。

私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、
「人生の問い」に答えなければならない、
答を出さなければならない存在なのです。

生きること自体、問われていることにほかなりません。
私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。
そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。

こう考えるとまた、おそれるものはもうなにもありません。
どのような未来もこわくはありません。
未来がないように思われても、こわくはありません。
もう、現左がすべてであり、
その現在は、
人生が私たちに出す
いつまでも新しい問いを含んでいるからです。

すべてはもう、そのつど私たちに
どんなことが期待されているかにかかっているのです。 

その際、どんな末来が私たちを待ちうけているかは、
知るよしもありませんし、また知る必要もないのです。 

 
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V.E..フランクルの言葉④
- 2006/05/14(Sun) -

一介の洋服屋の店員


ある日、ひとりの青年が私のところにきて、
ほかでもない生きる意味の問題、
というより生きる意味がないという問題のことで
私と議論しました。




そのとき、その青年は、
つぎのような異議を唱えました。
「あなたはなんとでもいえますよ。あなたは現に、
相談所を創設されたし、人々を手助けしたり、
立ち直らせたりしている。でも、私はといえば……。
私をどういう人間だとお思いですか。
私の職業をなんだとお思いですか。
一介の洋服屋の店員ですよ。
私はどうしたらいいんですか。
私は、どうすれば人生を
意味のあるものにできるんですか。」 



この男が忘れていたのは、
なにをして暮らしているか、
どんな職業についているかは
結局どうでもよいことで、
むしろ重要なことは、自分の持ち場、
自分の活動範囲においてどれほど
最善を尽くしているかだけだということです。 
活動範囲の大きさは大切ではありません。
大切なのは、その活動範囲において
最善を尽くしているか、
生活がどれだけ「まっとうされているか」
だけなのです。



各人の具体的な活動範囲内では、
ひとりひとりの人間が
かけがえなく代理不可能なのです。
だれもがそうです。
各人の人生が与えた仕事は、
その人だけが果たすべきものであり、
その人だけに求められているのです。




そして、より大きな活動範囲に
ほんとうにふさわしい働きが
できなかった人の人生は、
もっと狭い範囲でも
それをほんとうに満たした人の人生にくらべると、
まっとうされずに終わるのです。



この洋服屋の店員は、
具体的な生活環境のなかでは、
彼がうらやんでいる人が
自分の人生の責任がもっと大きいことに気づかず
その責任をまっとうしないなら、
それよりもっとたくさんのことを行なうことができるのです。


 
自分の活動を通じて、もっと有意義で、
もっと意味に満ちた人生を
おくることができるのです。


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V.E..フランクルの言葉⑤
- 2006/05/20(Sat) -

従来のセラピーの根底にある人間像が
もともと根本的に間違っていたのは、この点だったのです。
つまり、従来のセラピーは、人間をモナドと考えています。
従来のセラピーは、心理学ではなく、モナドロジー(単子論)です。
それは、人間を、一つの閉じたシステムとして、
窓も扉もない一つのモナドとして考えているのです。

しかし、ほんとうは、人間存在の本質には、
自分自身を超越するということが含まれているのです。
自分の人生にとって大切なのは、自分自身ではない、
なにかやだれかなのです。なにかの仕事やほかの個人なのです。
そして、このことが忘れられているのです。

 ですから、精神力学で言われるように
消費社会の欲求を鎮め衝動を解放すること、
あるいは行動主義心理学で言われるように刺激に反応すること、
そういったことだけが私にとって問題なのだとされるならば、
それには私は満足しないことでしょう。

私たちは、外で、世界の中で、なにかをしたいのです。
解放したり反応したりするのではなく、行動したいのです。 
私たちは、世界の中で、なにかを変えたいのです。
私たちは、だまされたいとかなだめられたいとは望みません。

この点で、薬物に手をのばす人々は、根本的に間違っています。
言うなれば実存的に、あるいは認識論的に間違っています。
かれらは、無意味感に襲われたために、
意味感情を自分のうちに引き起こそうとするのですが、
その意味感情は主観的感情にすぎないのです。
外では課題が待っています。

これは、カリフォルニアのネズミ、
オールズとミルナーとまったく同じです。
二匹の脳内には電極が埋め込まれています。
そして、ボタンを押すと、オルガスムと摂食衝動の充足が
引き起こされるようになっています。
すると、どうなったでしょうか。
二匹のネズミは、キーに飛び乗って、一日に五万回も
摂食衝動や性衝動を満足させることを学習したのです。
そして、その結果はどうでしょうか。
二匹のネズミは、現実の餌や現実の性の相手が与えられても、
それらに見向きもせず、
ボタンを押して自分で自分を満足させようとするのでした。

このネズミはモナドだと言えます。
しかし、それは人為的に操作された動物であって、
コンラート・ローレンツが明らかにしているように、
正常な動物なら、けっしてそんなふうに反応することはないでしょう。

まして、自然のままの正常な人間なら、
見せかけでは満足しないのです。
正常な人間は、現実の意味を求めます。
そして、個々の意味ならば見つけることができます。

かれは究極の意味をも求めますが、
しかしそれは見つかるとはかぎりません。
すくなくとも宗教心のない人間には見つかりません。
それは「人間の条件」に含まれていることであります。

人間としての人生には、ちょっぴり諦めがつきものなのです。


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V.E..フランクルの言葉⑥
- 2006/05/26(Fri) -

『死と愛』より


運命は
大地のように人間に属している。
人間は
重力によって大地にしばりつけられるが
しかしそれなくしては
歩行は不可能なのである。


われわれは、
われわれが立っている大地に対するのと同様に、
運命に対さねばならず、
われわれの自由に対する
跳躍台としなければならないのである。


運命なき自由は不可能である。
自由はただ運命に対する自由でのみありえる。




『夜と霧』より


およそ生きることそのものに
意味があるとすれば、
苦しむことにも意味があるはずだ。


苦しむこともまた
生きることの一部なら、
運命も死ぬことも
生きることの一部なのだろう。


苦悩と、
そして死があってこそ、
人間という存在は
はじめて完全なものになるのだ。

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V.E..フランクルの言葉⑦
- 2006/06/13(Tue) -

「人生が出す問いは具体的である」

私たちは、人生が出した問いに答えることによって、
その瞬間の意味を実現することができます。


ところで、人生が私たちに出す問いは、たんに、
そのときどきに応じてちがったものになるだけではありません。
その人に応じてもまたちがったものになるのです。


人生が出す問いは、瞬問瞬間、その人その人によって、
まったくちがっています。


ですから、生きる意味の問題は、
まったく具体的に問われるのでなければ、
誤った取り上げかたをしていることになるということもわかります。

つまり、それは、
具体的なここと今において問われるのでなければなりません。


一般的に人生「というもの」の意味「というもの」を問題にする
などということは、こういうものの見方からすると、
どうしてもとんちんかんなものに思われます。


それはたとえば、
チェスの世界チャンピオンにインタビューして、
「ところで、先生、どういう手が一番いい手だとお考えでしょうか」
と尋ねるようなレポーターの質問が、とんちんかんなのとおなじです。


そもそも、
まったく特定の、具体的な勝負の局面、
具体的な駒の配置をはなれて、
特定のいい手、
そればかりか
一番いい唯一の手というものがありうるでしょうか。

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V.E..フランクルの言葉⑧
- 2006/06/21(Wed) -

大学で科学を包んでいる包装は、
だいたいにおいて還元主義という包装です。
私たちが売っているのは、
生物学や心理学や社会学だけではありません。
私たちは、生物学主義や心理学主義や社会学主義を
人々に売っています。
つまり、私たちは人々にこう教えこんでいるのです 


人間はコンピュータにほかならない、
人間は突然変異の結果にほかならない、
人間は遺伝と環境とのたんなる産物にほかならない、
環境の産物、社会経済的条件の産物にほかならない、と。


こうこう、こういうことさえすれば、
経済的基盤さえきちんとすれば、
君たちは幸せになれるのだ、というわけです。
そして人々はそのとおりにします。
こうして、人々は、豊かな社会の中、福祉国家の中で、
より不幸になります。


現代社会が欲求を満足させ、
さらには欲求を生み出すことを追求していることこそが、
実存的空虚さの、無意味感の社会学的背景になっているのです。


けれども、そのような欲求追求の中にあって、
一つの欲求だけは、
しかも人間の根本欲求であるものだけは、
満たされないままなのです。
社会によって顧みられないままなのです。


その欲求とは
意味欲求であります。
言いかえると、
ある程度の物質的な豊かさに並行して、
実存的な窮乏があらわれるのです。

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V.E..フランクルの言葉⑨
- 2007/07/01(Sun) -

           絶望との闘い


具体的な運命が人間にある苦悩を課する限り、


人間はこの苦悩の中にも一つの課題、


しかもやはり


一回的な運命を見なければならないのである。


人間は苦悩に対して、


彼がこの苦悩に満ちた運命と共に


この世界でただ一人一回だけ立っている


という意識にまで達せねばならないのである。


何人も


彼から苦悩を取り去ることはできないのである。


何人も


彼の代りに苦悩を苦しみ抜くことはできないのである。


まさにその運命に当った彼自身が


この苦悩を担うということの中に


独自な業績に対する


ただ一度の可能性が存在するのである。
 

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