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阿闍世・コンプレックを考える①
- 2007/12/20(Thu) -
「罪悪感、無意識的罪悪感とは
 自己の存在、行為、思考、感情などについて
 自己自身、あるいは他者や社会から容認されないときに生じる
 意識的、無意識的な複合的感情であり、
 不安と一体になって精神病理症状を形成する感情の一つ」

フロイトは、
すべてを自己の責任として認識するという文脈性を持つ
キリスト教的精神の土壌のもとに
人類の普遍的な罪というテーマをギリシャ悲劇に求めました。

これに対して、
あらゆる事象を関係性という文脈において捉える精神文化を持つ日本では
東洋思想の古典である仏典に登場するある王家の物語を素材に
1932年、古澤平作氏が、
フロイトのエディプス・コンプレックス概念に対する
日本人に特有の『阿闍世・コンプレックス』を提唱しました。

エディプス・コンプレックスが
キリスト教倫理に根拠づけられるような父性原理に基づいた4~6歳頃の
「母親・父親・子どもの三者関係の情緒的葛藤と超自我の形成」
を重視したのに対して
阿闍世コンプレックスは
日本人に固有の文化的心性との関連から罪悪感について考察し
日本人の罪の意識の基盤に、仏教的な「懺悔心と許し」があるとして
母性原理に基づいた感情的葛藤=甘えや依存を許しあう二者関係”
について提起された概念だといえます。

その物語とは、古代インドのマガタ国の阿闍世王の悲劇です。
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阿闍世・コンプレックスを考える②
- 2007/12/22(Sat) -
この物語は、
観無量寿経や涅槃経をはじめとする
種々の仏典に断片的な記述があり
古澤氏はこれら仏典のいくつかから
阿闍世物語を断片的に収集し、
独自の仏教説話を創案・構成して
一つの物語として編集しました。

1970年代初めには、
古澤氏の流れを汲む精神分析医小此木氏によって
さらに改編が加えられ
現在語られる「阿闍世物語」は
その原典とはかなり異なった様相を呈しています。

仏典における阿闍世の物語は、
古代インドのマガタ国に生まれた阿闍世が
釈尊に対抗して仏教教団を分裂させ
自ら新仏になろうとして新仏教団を組織していた
提婆達多にそそのかされて、
最初は父を幽閉するのですが、
それを見かねて父のもとにひそかに食事を運ぶ
母の韋提希をも幽閉します。
こうして父は食事を断たれて餓死し、
阿闍世は自ら王位につきました。

しかし、その後、阿闍世は
後悔の念と罪の意識に苛まれ、
その罪の重みに耐えかねて、
全身に大悪瘡(悪いできもの)ができ
死を予言されます。
こうして大臣耆婆の勧めで赦しを乞うてブッダに帰依し
その後は仏教の偉大な庇護者になったというものです。

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阿闍世・コンプレックスを考える③
- 2007/12/28(Fri) -
阿闍世は、梵語・アジャータシャトルの音写で
「未生怨」と訳されます。

「未生怨」という名前のいわれは、
父王には世継ぎの子がいなかったので占い師に夫人を占わせたところ、
「山中に住む仙人が死後太子となって生まれてくるであろう」
と予言しました。

そこで王は、
早く子どもが欲しい一念から、仙人を殺してしまうのです。

間もなく夫人が身ごもったので再び占わせたところ、
占い師は、
「男子が生まれるが、その子は王の怨となるであろう」
と予言しました。

やがて生まれた男の子は
「未だ生まれないときから怨みをもっている者」
というので「未生怨」と名づけられたのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「未生怨」・・・・
なんて恐ろしい、救いのない言葉でしょう。

私が初めてこの言葉に強い恐怖を抱いたのは
かつて所属していた宗教団体と宗門との間で熾烈な争いが起き
その時の法主を「底知れぬ未生怨の世界」として
不幸な私生児として育たざるをえなかった母親自身の
「怨念」から発した様々な動機の塊として、
まさにその法主が「魔性の申し子」として生まれたのだと
断じていたことでした。

このとき感じた恐怖・・・・

それは常に
「何かとてつもない生まれながらの空恐ろしい存在としての自分」という、
無意識的罪悪感や加害者感に苦しんできた私にとって
「未だ生まれないときから怨みをもっている者だったのだ」という
根源的な暗黒の烙印を押されてしまった絶望的な恐怖でした。

「底知れぬ未生怨」だとか「怨念」だとか「魔性の申し子」だとか
今はもうそんなオドロオドロしい妄想の世界は
思い出すのも嫌なことです・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

王もまたその子を恐れて、
夫人とともに高い塔の上から投げ捨てたのですが
一本の指を折っただけで無事だったので、
阿闍世王のことを別名「折指(しゃくし)」とも言います。

このように仏典では、
父王を殺したのはあくまで阿闍世であり、
仙人の死が待ちきれずに仙人を殺したのも父王なのです。

阿闍世の物語は、父親殺しがテーマになっているので、
骨格はギリシア悲劇「オイディプス王」と変わりません。

仏典では阿闍世は、
典型的なエディプス・コンプレックスの対象だったといえます。

ところが古澤氏は、
仏典のいくつかから阿闍世物語を抜き出すにあたって
独自の仏教説話を創案し
「阿闍世・コンプレックス」概念を提唱したのです。
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阿闍世・コンプレックスを考える④現代版「阿闍世物語」
- 2007/12/29(Sat) -
ここでは、改編された現代版「阿闍世物語」を概観します。

マガタ国の王である阿闍世は、ダイバダッタという僧から
その出生にまつわる秘密を聞かされます。

その話とは、
阿闍世の母であり王妃であるイダイケが
容色の衰えのために夫であるビンバサラの寵愛を失うのではないかと恐れ、
気持ちを繋ぎ止めるために、王との間の子どもを欲します。

しかし、子どもがなかなか宿らないと焦る王妃に、旅の僧が
「ある仙人が数年後に死して後、王妃の胎内に宿るであろう」
と告げます。

その数年が待てないと考えた王妃は
「それならば・・・」とその仙人を殺してしまいます。

殺された仙人は
「わが恨みはお前の夫を殺すであろう」と
断末魔の叫びをあげ、霊魂として王妃の胎内に入ります。

王妃は叫び声を聞いて恐ろしくなり、
ようやく宿った子どもを流そうとありとあらゆる試みを行いました。

けれども、その意に反し、胎児は順調に育ち、
ついに出産の時を迎えます。

王妃は最後の手段として塔に登り、
高みより我が子を産み落として殺そうとしました。

にもかかわらず、産み落とした赤ちゃんは
小指を骨折しただけで無事だったといいます。

こうした出生の秘密を知った阿闍世は怒り狂い
母であるイダイケ王妃を幽閉し、
父であるビンバサラ王を殺害するのです。

その直後、
阿闍世は留注という病に倒れ
(留注:体表全体に腫脹が生じ悪臭を放ちながら腐敗していくとされている)
家臣からも見放されて瀕死の状態となってしまいました。

そのことを伝え聞いたイダイケ王妃は家臣に命じて幽閉を解かせ
誰もが近寄ることさえできないほどの悪臭を放つ阿闍世を抱きかかえ
一心不乱に介抱しました。

こうしたイダイケ王妃の献身的な看病が功を奏し
阿闍世の容態は快方へと向かいます。

やがて回復を遂げた阿闍世は
自分が犯した罪を自覚し、また、罪深き自分を許し
死の淵から救い出してくれた偉大な母の愛の前に
大いなる懺悔の念を抱いたのでした。

以上が現代版「阿闍世物語」の内容です。
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阿闍世・コンプレックスを考える⑤罪悪感、許し、懺悔心
- 2008/01/02(Wed) -
古澤氏は、
フロイトのもとで精神分析を学んだ唯一の日本人で
精神分析の一開業医として日本人への治療実践をしてゆく中で、
その中核的問題として、フロイトがいっている
両親との三角関係の中から起きてくる葛藤よりも
むしろ母親との二者関係に
その中心的問題があることを見出しました。

それゆえ、古澤・小此木両氏は、
この阿闍世王物語を、母子関係の問題として説明するために、
王妃であるイダイケ夫人が年老いて容色が衰え、
ビンバシャラ王の寵愛が薄れることを恐れて
仙人を殺して阿闍世を身籠ったと、話を作り替えています。

これは、臨床的な事例において
子どもにとって母親は、
自分を愛しているから産んでくれたのではなく
母親自身のエゴで産んだのだという事実に気づいた時
激しい怨み、憎しみの感情が起きると考えることができます。

このような母親への怨みは、母親を愛するがゆえに、
母が自分を欲したのは母の「母たる部分」ではなく
夫の愛の喪失を恐れる「女の部分」であったと知ることは
自分の出生に関わる裏切りに等しく思われ
「生まれる以前に生じた怨み」として「未生怨」と呼んだのです。

古澤・小此木両氏は、日本人特有の心性として、
自分にとって100%の母でなかったことに起因する
「裏切られ感」と「怒り」からなる母への怨みを重視したといえます。

阿闍世の父の殺害は、
フロイトのいうところの母に対する愛欲によるものではなく
母の煩悩にその源を発していること、
生命の根源たる母を、愛するがゆえに破壊しようとする傾向を指摘し、
さらに、父殺害の呵責に苦しむ罪の意識を「罪悪感」と名づけ
その罪が許され救済されたと感じた後に生じる罪の意識を
宗教的心理からくる「懺悔心」としています。

自分の存在との一体感を求めた母に裏切られた怨みから、
父母の殺害を意図し、
その攻撃的願望が処罰されるという罪悪感に対して
予想に反した「許し」を与えられることにより
罪の意識に変化が生じるという心的過程を論じようとしているのです。
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阿闍世・コンプレックスを考える⑥日本人的なるもの
- 2008/01/05(Sat) -
古澤氏は、まずフロイトの技法に則って
患者に洞察を求める努力をしているうちに
分析することが患者の心を
いかに切り刻むことになっているかに気づき、
しだいに「自己と患者との融合体験こそが
患者の生命の出発点であり、
患者がこの一体感や対人関係での親密な融合感を
体験しうるようになることこそが治療の目標である」
と考えるようになりました。

いわゆる「とろかし療法」と呼ばれたものです。

本来、中立的態度を通じて
患者に洞察を求める精神分析療法のなかで
このような治療者の態度の変化は、
古澤氏が深く傾倒していた
浄土真宗に負うところが大きいといわれています。

また一方では、
こうした古澤氏の姿勢の変化は、日本の患者が、
父子関係を中心に語る欧米の患者とは違って、
母子関係を中心に語りやすい事実にも由来しているといわれます。

フロイトのいうような父親の処罰に基づく罪意識とは違った罪意識、
いわば母子関係に由来する罪意識のあることに気づいたのです。

日本人のもつ依存性、特に母親への依存的固着を重視し、
その心理を母親の献身によって、
いわば治療者の献身によって癒そうとしたのです。
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阿闍世コンプレックスを考える⑦母性神話
- 2008/01/08(Tue) -
フロイトのいうところの
エディプス・コンプレックスのエディプスは、
ギリシャ悲劇の主人公です。

そのストーリーは
「生まれた子どもは、父を殺し、母親を妻にする」
という予言のためエディプスは森に捨てられ、
やがて運命の意図にあやつられて、
そうとは知らずに父親を殺し、母親を妻にしてしまい、
その真実を見極めた時、
自らの目を刺すことで罰を受けようとするのです。

エディプス・コンプレックスの超自我は、
父親から懲罰されるという
去勢不安から生まれる罪悪感が根底にあり、
キリスト教的な伝統的父権主義に基づく
『父親=厳格な法の執行者』です。

阿闍世コンプレックスには、
罰や恐怖による罪悪感は存在しません。

阿闍世コンプレックスは、
母親と子どもの二者関係における
『甘え・憎悪・許し・謝罪』
などの複合的な感情なのですから、
父親のような社会的存在としての他者は
はじめから存在していないのです。

『自分が悪い事をしたのに、
相手から許されてしまったことによる申し訳のなさや
後悔・謝罪としての罪悪感』であり、
「悪い行為をした加害者(子ども)」を
「罰する」のではなく、「許すこと」によって
自己懲罰的な罪悪感を自発的に抱かせようとするものであって
阿闍世の母・イダイケのエゴイズムと
愛情・保護という母性原理に基づく
『母親=寛容な情・許しの体現者』なのです。

罪に対する処罰を恐れることによる
エディプスの「処罰方罪悪感」に対する
阿闍世の「許され型罪悪感」。

すなわち、エディプスが父からの復讐を恐れて
罪悪感を持ったのに対して
阿闍世は自分の行為によって被害を受けた母に
「許される」という体験に由来する罪悪感なのです。

仏典の阿闍世物語では阿闍世の苦悩と病は
自分自身の父殺しと母の幽閉からくるものであって、
ブッダに帰依することによって回復してゆきます。
また、父王のビンバシャラも母のイダイケも
ブッダに帰依しています。
そこでは「寛容な情・許しの体現者」としての
母親の介在は強調されてはいません。

母親が真の「母性」を取り戻したことによる
子どもの病からの回復というストーリー・・・・

母性の回復が子どもの回復につながるというこうした発想自体
日本の「母子関係の重視」という文脈と
全く軌を一にしていると私には感じられるのです。 
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阿闍世コンプレックスを考える⑧日本人的なるもの
- 2008/01/12(Sat) -
相手に献身的に尽くすことで恩を感じさせ、
反対に、
相手から懸命に尽くされることで自分が恩を感じる。

こういった関係性のあり方は
「自己犠牲的な他者への献身」と
「世話役割」へと身を投じていく女性の
家父長制における共依存的な関係性が
その根底にあるようにも思えます。

日本人の罪悪感は、西洋人の罪悪感のように
超越者との関係から導かれるものではなく、
自分の所属する集団の人たちの
信頼を裏切る時に強く感じられるもので、
その罪悪感は、人間関係の関数であるともいえます。

普遍的な法や倫理を破ったために生じる
客観的な罪悪感というよりも、
自分の知っている他人や世間に
迷惑や心配を掛けてしまって申し訳ないという
後悔や謝罪の念に基づいた罪悪感なのです。

また、日本人は、
他人との協調や連帯を大切にする反面
自分の行動や意見を制限し、
集団的価値観にそぐわない
突出した個性を押しつぶそうとします。

日本人の超自我は、
『他人や世間に迷惑をかけてはいけない』
という主観的な基準に基づく良心としては機能しますが、
超越的な善悪の判断基準を持たないために、
相互的に罪や誤りを許しあう
寛容さ=甘えを常に容易に孕むものになるのです。

土居健郎氏は、
こうした『甘え』を根底にした対人関係のあり方と
その関数である罪悪感は、
さまざまな形をとって日本人の精神病理を
特徴づけているとも考察しています。

(今日では、欧米人にはないとされた「甘え」も
 決してないわけではなく、
 深く抑圧されたものという認識がなされるようになり
 諸外国の精神分析家からをも注目を浴びるようになっていますが)

古澤氏の提起した阿闍世コンプレックスの概念は
小此木啓吾氏によって日本人論の観点から
日本的一体感=甘えとその相互性、
日本的恨みとマゾヒズム、
日本的許しと罪悪感
という三つの構成要素からなる一つの全体的な心理構造が
日本人の母子体験の源流にあると指摘しています。

視点を変えればこの物語は
父権を主張する夫の言いなりに子どもを産まなければ
自分の地位を保つことさえ出来ない女性の不安や
こうした夫の仕打ちに耐えて、
わが子を産んだり殺したりしなければならない
母親のDV物語であり、
また、その妊娠を喜ばれることなく殺されそうになった
虐待された子どもの物語でもあり、
さらに、胎児期に子どもを殺そうとした
虐待する親の物語であるとも読み取れます。
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