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こころの最深部へ①
- 2008/07/28(Mon) -
とある方から、現在の私の在り方に関して、
大変貴重なアドバイスを頂戴したのですが、
示唆していただいた内容を自分自身の身に即して、
深い実感として理解するところまで追いついてゆかなくて、
頂いた語句一つ一つの理解から再度学習し直し、
少しでも自分のものにしてゆければと考え、
ここで「学習のまとめ」をしてゆこうと思いました。

以下、覚書。
「もう一つの精神医学」より
http://homepage2.nifty.com/another_psychiatry/framepage1.html

原体験心性

これは、人間が持って生まれた心性であり、
胎児期~新生児期、つまり子宮内生活~誕生前後の
赤ん坊が持っているであろう心性です。

「原(体験)心性」
という語はいかにも専門用語然としているので
筆者は治療場面では専(もっぱ)ら
持って生まれた赤ちゃんのこころと表現しています。

想像力を働かせれば分かる事ですが、
この心性は次のような構造的特性を有しています。
  ①内外(自他)の区別が無い ∴空間や状況=自分
  ②受け身(受動的)
  ③今ここに在るものが全て(体験の直接性)
  ④感じたり思っているだけ
  ⑤問題意識も無い

この心性は更に次のような法則性を有しています。
  ①述語的状況性が支配する
  ②サイレントに(密(ひそ)かに)終生活動し続ける
  ③状況の持続によりかかる(馴染みの法則/生物の保守主義)
  ④快(ポジティヴ)の事象に一体化し、
   不快/苦痛(ネガティヴ)な事象は異常視し排斥し
   遠ざかろうとする(フロイトFreud,S.の快‐不快原則)

実はこれは、フロイトFreud,S.が
ゲオルク・グロデックGroddeck,G.に倣(なら)って
[グロデックはフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
(Friedrich Wilhelm Nietzsche)に倣(なら)って]
「エス」と名づけたものと別のものではないでしょう。

ドイツ語の「エス」Es は、英語のit(それ)に相当し、
ドイツ語でも英語でも、天候などを表す場合に「仮の主語」として用いられます。

グロデックやフロイトは、無意識が、主語(主体)として名指し得ない
(名づけて呼ぶことのできない)性質のものであることを的確に見抜き、
仕方無しに「それ」と名づけたわけです。
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こころの最深部へ②
- 2008/07/29(Tue) -
http://homepage2.nifty.com/another_psychiatry/framepage1.html
 「原体験領域」の構造と性向

「治療精神医学」が、最も深く病んでいるとされていた
「統合失調症」患者の治療をその中心に据える中で
見出してきた人間の「こころ」の最深部は、
胎児期~新生児期、つまり子宮内生活~誕生前後の赤ん坊が
それを生きているであろう体験世界でした。
 
辻はそれを「原体験領域」primal experienceと名づけ、
その性質を「原体験心性」と呼んでいます

この心性は次のような構造的特性を有しています。
 ①内外(自他)の区別が無い ∴周りの空間や状況=自分
 ②受動的
 ③今ここに在るものが全て(体験の直接性)
 ④感じたり思っているだけ
 ⑤問題意識も無い

スイスのJung,C.G.や英国の精神分析家Bion,W.R.の業績を参照すると、
この原体験世界に於いても全くの無対象ではないのかも知れません。

しかしそれは、現実の対象と出会う以前の生得的な「元型」archetypeや
「前概念」pre-conceptionといったものなので、
厳密には「対象」と呼ぶことはできないでしょう。
それは、何らかの刺激に対する心的受容器のようなものとして準備されている、
と言えるかも知れません。
 
この心性は更に次のような傾向を有しています。
 ①述語的状況性が支配する⇒述語同一性論理(注意!「述語論理」ではありません)
 ②サイレントに終生活動し続ける
 ③状況の持続によりかかる(馴染みの法則/生物の保守主義)
 ④好ましい事物に一体化し、好ましくない事物は排斥し遠ざかろうとする

(Freud,S.の「快-不快原則」。
 但し「快/不快」と言ってしまうと既に人間的感情に近くなり過ぎるので、
 辻は原生生物から高等動物にまで共通する基底的性向であることを表現する為に
「ポジティヴ/ネガティヴの法則」としています。)

「原体験」という言葉には、次のような意味があります。

 A.その人の思想が固まる前の経験で、以後の思想形成に大きな影響を与えたもの。   
  [ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]
 B. 記憶の底にいつまでも残り、
   その人が何らかの形でこだわり続けることになる幼少期の体験。

   [ 大辞林 提供:三省堂 ]

「原体験」は「原初的体験」primal experienceです。

上記Bの「記憶の底」というのを「意識化され難い記憶の最基底」とみなし、
「幼少期」に「胎生期」を含めれば、何とかそれに合致はします。

精神的孵りと複合

「こころ」の発達は「外界の現実」と出会うことから始まります。

「外界の現実」は欲求不満の体験を通して徐々に学習されて行きます。
 
生後しばらくの間は通常、母子はまだ一心同体の状態で、
赤ん坊が欲求不満に陥ることは極力無いように配慮されます。

しかし、母親(養育者)がどれほど努力しても、
赤ん坊の欲求にいつまでも完璧に適応し続けることは不可能です。

その為に、ごく当たり前の事として、赤ん坊は欲求不満を体験するのです。
 
当然の事ながら、そのような体験には不快感や苦痛を伴います。

上記のような「原体験世界」の住人である赤ん坊にとってみれば、
そのような不快感や苦痛は「晴天の霹靂」であり「有る筈の無いもの」です。

従って即座に排除しようとし、
通常は泣き喚いてその泣き声と共に自分の外へ(awayへ)
錯覚的に放り出そうとします。
 
これが100%成功してしまえば、
赤ん坊はいつまでたっても外界の現実を認識するに至らないでしょう。

しかし、幸か不幸かこれは殆ど成功しません。

それでも、放り出した不快感や苦痛が、
その意味を理解しようとしながら関わる養育者の存在によって
緩和されることは有り得ます。
(実際には十全に理解できなくても、投げ出さずに一緒に居る、
 ということが重要です)

そのような関わりに十分に恵まれれば、
赤ん坊は不快感や苦痛をすぐに「アカン!」と放り出そうとする在り方から
徐々に「アカンけどいい」という複合的体験を
感覚的記憶として身につけるようになります。

この肯定的な感覚的体験記憶は、PTSDに於けるフラッシュバックと同じく、
類似の状況下で自動的に速やかに現実感を伴って復元します。

即ち、辛い時苦しい時に繰り返し即座に再生されるのです。

これが従来「基本的安全感」basic securityと言われているものの
内実だと思われます。
 
そして子供は、「何でも思うようになる」という原体験的幻想と
「思うようにならない」という現実的体験との間で様々な情動を体験しつつ、
不如意の現実というものを繰り返し受け容れ認識して行くことになるでしょう。

イギリスの精神分析家Winnicott,D.W.は「抱えること」(holding)として、
Bion,W.R.は「包み込むこと」(containing)として、
この間の事情をうまく概念化しています。

このようなプロセスは恐らく一生涯続くものでしょうが、
うまく行っている場合には、
子供はやがて養育者の「投げ出さずに一緒に居る」機能を内界に取り入れ、
その分だけ外界の養育者は必須の存在ではなくなって行きます。

そうして、原体験心性から分化した現実認識の機能は
より精緻なものとなって行くと共に、
原体験領域も変化をこうむり、両者がまた統合(複合)される、
ということが繰り返されて行くのです。(⇒親子関係の健康な場合)

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こころの最深部へ③
- 2008/08/03(Sun) -
http://homepage2.nifty.com/another_psychiatry/framepage1.html

養育環境の赤ん坊への適応がうまくいった場合
赤ん坊は自らが常に歓迎されていると感じ、
健康な自己愛(自己肯定感、自己信頼感、自尊心など)を発達させる。

赤ん坊が遠ざけようとした不快な思いや、養育者側に生じた不快な思いは、
ひとまず養育者によって受け止められ抱えられる。

そうして、しばしば赤ん坊に役立つ形で返される。

そのおかげで、赤ん坊は殊更自分を守ろうとする必要も無く、ありのままで居れる。
 
同じ事を「愛情」と「理解」という言葉を用いると、「うまくいった場合」には、
親は赤ん坊~子どもと言えども一個の人格/主体であると捉えている。

もちろんまだ子供の主体は十全には生まれていない。
しかし、親はそれが既にそこにあるかのように慎重に配慮しながら扱う。

それは「理解しようと努力する姿勢を伴った愛情」です。
必ずしも子供の心が十分に理解できなくてもよいのだ。

理解できなくても、嫌になって投げ出すのではなく、
理解しようと努力しつつそこに共に居る、ということが大切なのである。


このような養育者の関わりのことをWinnicottは
「ほどよい母親」good enough motherと表現し、
Kohutはもう少し抽象化して「自己対象」selfobjectと表現した。

そして、そういう事の繰り返しから、
子どもはいつしか苦痛や葛藤を抱える養育者の機能を取り入れて身につけ、
更に合理的客観的に考え判断する機能
(いわゆる自我の自律的機能)を発達させて行くのである。


このような心的装置をフロイトに倣って「自我(+超自我)」と言ってもよいが、
抱える機能を強調する為に“containing-self”と呼んでもよい。
 
このような養育者の姿勢を簡潔に、
「からだのお世話」との違いを強調して、「こころのお世話」と呼ぶ。

自我(内的自己)と超自我(内的対象)は、
その発生の時点から既に常に、それぞれが単独で存在するのではなく、
対(つい)として存在しており、
それらが一つ(或いは複数)の複合体を成している、と考えられる。
それを「自我・超自我複合体」と呼ぶ。

なお、
健康であればあるほど、「自我・超自我複合体」は
複数のものがバラバラに存在するのではなく、
緩(ゆる)やかにではあってもまとめられているであろう。

ここから翻(ひるがえ)って、
心の成長が不幸にしてうまくいかなかった場合には、
単数へのまとまりを当然の事として期待することはできないこともまた、言うまでもない。


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