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私の外傷体験⑤愛着障害Ⅲ-「愛」を求めて(カテゴリーの変更)
- 2006/07/01(Sat) -

「愛着障害」は、私がずっと自分が抱える問題点として
考え続けてきたことでした。


非常に早期(0歳時期)での育児放棄や
長年にわたる親からの心理的虐待の元で成長した私は
14歳頃には既に壊れてしまいました。


そこから回復していくためにだけ
私の人生はあったといっても過言ではありません。
際限のない修正への努力と失敗と落胆と絶望と・・・
ブラックボックスの中で
逆巻く真っ暗な渦の中で
引き裂かれながら生きてきたようなものでした。


そんな私には
今の子ども達の置かれている状況自体が
まさしく姿形は違えども
自分が味わったのと同じ様な苦しみを
子ども達に刻み込んでいるように思えるのです。


..............................................


人間の一生で脳がもっとも急速に発達する
胎児期から3歳頃までの育児環境が
発達していく脳の組織と機能に深い影響を及ぼすことが
脳医学の発達に従って
はっきり分かってくるようになりました。


アメリカ精神医学会が発行している
精神医学の世界で
最も大きな影響力を持った診断基準である
DSM-Ⅳ(精神障害の診断と統計マニュアル第4版)
(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)
にも、近年知られてきたRAD
(Reactive Attachment Disorder-反応性愛着障害)
の診断基準がのっています。


一般的には、
両親の「育児放棄」や「虐待」だけが
原因と思われがちですが、
他にも様々な原因が考えられます。


例えば
望まれなかった出産・早期出産等の困難
離婚・入院・仕事のため両親と関わる時間の欠如
周産期を含めた母親の心の病気・過度の環境の変化
過度の干渉・ダブルバインド
他にも色々考えられます。


それらは、トラウマ的(心的外傷的)経験として
幼児期に持続する過覚醒反応を起こさせ
脳神経発達や、中枢神経系統に障害を与えるといいます。


子どもたちには往々して、PTSD(心的外傷後ストレス障害)
の症状が出るようになり、
また、愛着と感情を調整する
orbitofrontal cortexと呼ばれる
人間の顔の表情(親の笑顔など)に
敏感に反応する脳の部分が充分に育たないため
衝撃的で暴力を振るう傾向があるといいます。


このことは、最近の子ども達の心の問題を考える
重要なキーワードの一つではないかと感じています。


何もしなくても一緒にいるだけでホッとして気持ちが安らぎ
安心で満ち足りた気分になるような気持ちの「つながり」・・


愛着が形成されないままだと
自分がここにいていい存在であるということや
自分が生きていていいんだという思いに
自信が持てなくなってしまいます。


常に何かに頼っていないと気持ちが落ち着かなかったり
ちょっとしたことで興奮したり落ち込んだり。
キレル子や乱暴な子、非行、拒食症や過食症などの背景に
この愛着障害があることが少なくないと思います。


愛着は、子どもが満足できる時間を
養育者と一緒に過ごすことで作られていきます。
毎日でなくても、都合のつく範囲で
たとえ短い時間でも
自分の全てを子どものためだけに使う、
そうした時間を持つ。


本当の育児は
早期に知的な訓練をすることでも
たくさんのモノを与えることでもなく
実はほんとうに簡単なことなのではないかと思っています。
 

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私の外傷体験⑥愛着障害Ⅳ-再び「愛」を求めて(カテゴリーの変更)
- 2006/07/02(Sun) -

私は現在、様々な活動に携わっています。


心理的援助だけではなく、


環境改善の試みや、施策面での行政への働きかけなども


視野に入れて活動を進めています。


それらのどれか1つが欠けても、


充分な解決策にはならないと痛感しているからです。


「虐待」は「母親」だけの問題ではありませんから。


 


勿論、全てボランティア。


ぎりぎりの生活を支えるためにパート仕事をしながら、


活動費もそこそこかかりますしね。


 


「なぜそんなに無理をしてまで」とよく人に言われます。


そうでしょうね・・


幸せに生きてきた人達には


こんな気持、分からないかもしれません・・


 


自分自身が、乳幼児期からの「愛情剥奪」という


苛酷な生育環境を生きてきて


そこで否応なく刻み込まれてしまった


深い精神的外傷を抱えたまま、


とてつもなく愚かで苦難に満ちた人生を


生きざるをおえなかったからでしょうか。


 


自己破壊的になって激しい自傷行為を繰り返したり、


危険な人間関係を持ちやすく、何度も殺されそうになったり、


常に抑鬱的で、身体的にも脆弱で、


いろんな疾患や身体的な苦痛を常に感じていて。


 


「自分」というものに、ふと気が付いたのは、


もう20歳を越えていた頃だった気がします。


それまではずーっと、真っ暗で巨大な渦の中に巻き込まれ、


身体ごとグチャグチャに引き裂かれて


血まみれになって蠢いている動物のような生活でした。


 


そんな中、まるで芥川の「蜘蛛の糸」のように、


ただの気まぐれに差し伸べられたに過ぎない、


たった1本の手に必死にしがみついて、


やっと泥沼のような生活から抜け出せたと思っていたら、


その人は(夫です・・)大変なアルコール依存と暴力と


絶え間なく借金を繰り返す人格破綻者だった・・


 


そして、再び、虐待の日々が延々と続く。



全て自分が悪いからだと強く強く思い込んで


私はそこで身動きひとつできはしない・・


 


どうやって抜け出していったのか、


自分でもはっきりとはまだ整理ができていない。



「何かがおかしい」と思い始め、


カウンセリングも受けながら、精神分析や臨床心理学や、


巷に溢れる様々な本を貪るように読み続け、


自己の問題点をひとつひとつ掘り起こし、


気づきの苦悩と悲しみに耐えながら、


カタツムリのような稚拙な速度で、


自己点検と認知行動修正の戦いを繰返してきました。


 


「愛」を求めて、


「愛」が欲しくて、


「愛」に振り回されて、


「愛」に傷ついて、


そして「愛」を諦めて。


 


大きな大きな、私にとっては「死」にも等しい


「諦め」をやっと得て、


ようやく「人」としての命の在り様


辿り着きつつあるように思っています。




(「私の外傷体験」は、一応終わります。


症状や傾向をここに書き並べることは


自虐的でしかないと思い、辞めることにしました)


 


 

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ボランティア雑感①
- 2006/07/02(Sun) -

「あなたの話はもう充分わかった。
それであなたは、そのために何を考えて何をどうすると言うの?」


そんなふうに急に感情的になって苛立ちをぶつけてくる。
詰問調で追い詰めてくる。


たぶん、心身に深い傷を負って生きている人達の話とかを
直接いっぱい聞く機会があって
自分が強烈に反応してしまっているだけのことなんだけど
本人はそのことに全く気づいていない。


そして、自分で処理できない自分の激しい動揺に
自己陶酔して、自分だけを正当化して
今まで、ともに頑張ってきたはずだった仲間に対して
苛立ちをぶつけて来る。
まるで自分だけが「彼ら彼女らの痛み」を理解しているかのごとく。


「口先だけの話は
何も感じていない人よりも余計に腹が立つ!」


と、そこまで言われちゃうと
「あなたは自己愛が強すぎて
周りが何にも見えなくなってるだけですよ」
と、忠告する気にもならないから、
そっと離れるしかない。


対人援助のボランティアなどをしていると
こういうタイプの人がよく出てくるのです。


大抵、その団体の理論面をバックアップしてるインテリに多いんだけど
急に涙を流しながら「現実を見てください!」などど言い出す。

それって、みずからの苦労を殆ど語らず
コツコツと黙々と活動している仲間に対する
理解と尊敬心の欠如でしかないと思うよ。
ただのうぬぼれと傲慢でしかないと思うよ。


そんなときが1番嫌になる時。
実は最近もありました。
で、今はその団体とは少し距離を置いています。
で、別のボランティアの講座を昨日から受けています。


こんなことで嫌になってたんじゃいけないとは思うけど
最低限、自分の内面を見つめる目だけはもってもらいたい。
特に指導的立場にいる人間には。
つくづくそう思います。


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ボランティア雑感②「投影」という「防衛機制」のやっかいさについて
- 2006/07/03(Mon) -

自分ではとても引き受けられないような問題を
他人の中に見出して、
それを攻撃することによって
自分の問題として見ないようにする。


これって誰でもがよくする「投影」っていう防衛機制ですよね。


特に、自分にとってとても耐えがたく
直面化できないような事例に出会うほど
この防衛機制は知らず知らずに強化されてしまい
それはもう、どんなに素晴らしい知的な理解とかも
いとも簡単に超えちゃって
自分の無意識が勝手に操作されて
他人の中に自分の問題を見出して攻撃してしまう。


多分それが
「この現実を見てください!」
などと急に人を悪者にして
自分だけはまるで別の次元の人間であるかのように
本気で涙を流す人々の心理でしょうか?


これは、ボランティアに限らず
人を援助しようとする者がいつ陥ってもおかしくない
当たり前の人間の心理でしょう。

それはきっと私も同じ。
人を非難することで
「自分には関係ない」「自分は間違っていない」と
無意識に誰かに責任を負わせたくなるほど
傷ついて辛いということなんでしょうね。


「自分を知ること」の大切さ。
所謂「逆転移」を自分で自覚できることの難しさ。


昨日からそんなことばかり考えています・・


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ボランティア雑感③援助する側の落とし穴
- 2006/07/04(Tue) -

過度に良心的であろうとしたり
自己犠牲的なまでに人に尽くそうとする。


ボランティアだけではなく、医療・福祉・教育・カウンセラーなど
人を援助する側の人間には
そういうタイプの人が結構多く見受けられます。
(勿論、私も「要注意人物」です・・)


そして、そうで在るからこそ
現実が自分の思うようにいかないとか
自分の予想外の反応や状況に出会ってしまうと
急速に人間不信に陥ったり
自分の無力さに、とことん落ち込んだり
全てを虚しく感じて抑うつ的にさえなってしまう。

こうした発想の根底には
「援助者として万能であらねばならない」
という幻想=メサイア・コンプレックス

強く働いていると思われます。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


メサイアコンプレックスとは
「自分が救われたいから他人を救う」
「人を助けることで自分の存在を確認したり、優位に立とうとする」
というコンプレックスで


その欠点と特徴は
このコンプレックスに突き動かされた行動は、
相手にありがた迷惑の感じを与えることが多い。
つまり、助けられる側からすると、
一応はありがたいことではあるけれど、
本当にこちらのことを思っての行動ではなく
自己満足であることが明らかな行動なのである。


また、根底は相手の為にと思っているわけではないので、
相手がその援助の申し出を断ったり、
注文をつけたりすると不機嫌になったりもする。

そしてさらに、
その行為の結果が思わしくなかったりした場合、
その事実に直面できずに
同じ行動にこだわり続けたり、
あるいは反対に途中で簡単に投げ出したり等々・・
やっかいなことになる場合が多いのが特徴である。            


 図解雑学『ユング心理学』より


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マジ、やっかいだ・・


では、なぜそうなっていくのか?
どうすればそこから抜け出せるのか?
考えていこうと思います。


(続く・・)


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ボランティア雑感④メサイア・コンプレックスの深層
- 2006/07/05(Wed) -
で、
そうなっていく原因を考えてみました。


基本的には、メサイア・コンプレックスに捉われる人は
「いつもいい人でいないと不安」
「嫌われることがとても怖い」なのでしょう。
(私も、今でもその傾向は確かにある・・)


だから「無理をしてでも相手の要求を引き受けねば」
と思ってしまう。
だから相手に「受け入れられ必要とされる」ために
一生懸命尽くしてしまう。



「人から必要とされる必要」が
実は自分の中に生じているのです。

勿論、本人には殆どその自覚はありません。
無意識的にそうなっているのです。
人間関係のパターンになっていると思われます。


 

その結果、その行動が止められない状態にまでいくと
いろいろな問題が生じてくるのは当然です。
でも、「そんなことはやめなさい」とお説教をしても
到底、やめることは出来ないでしょう。

 

本人の心の中に
「そんなことをしなくても、自分は人から受け入れられるし
必要とされる人間なんだ」
という気持ちが自然に出てこないとやめられないのです。

これがメサイア・コンプレックスの奥底にある
「人間関係の病理」だと思われます。



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これからは、そうなっていった「背景」と
「回復への道」を考えていきたいと思います。




(続く・・)
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ボランティア雑感⑤人間関係の病理とその背景
- 2006/07/06(Thu) -

「人間関係の病理」と言うと大袈裟なようですが
これには子ども時代にどんな人間関係を身につけたかが
大きく関わっているようです。


親が、無条件に自分を受け入れてくれたかどうか。
ありのままの自分を必要としてくれたかどうか。


そうでなかった人は、
人から受け入れられ「必要とされる必要」が生じてくるのです。


子どもの頃
親から虐待を受けたり
否定的な扱いを受けたり
条件つきの愛(いい子でいないと愛されない等)
しか感じられなかったり。


そんなふうにして育つと
「自分は人から受け入れられない人間。必要とされない人間」
と心の奥底に深く深く
刻み込まれてしまって
自己評価がとても低くなってしまいます。


大きな「自己愛の傷つき」が生じてしまうのでしょうね。


そして、毎日の生活の中で
絶えず人から「受け入れられるか、必要とされるか」と
気にしながら、不安を感じながら、生きることになる。


常に不安だから、常に自分を受け入れてくれる人間関係を
常に求めようとしてしまう。


また、受け入れられなかった自分は
「ダメな自分」として否定され
「あるべき理想の自分」という幻想にいつも呪縛されてしまう。

「本当の自分」は絶えず「理想の自分」と比較され
当然、「本当の自分」は好きになれないから
それを補おうとして、
更に人に尽くす好ましい「理想の自分」へと
盲目的に熱中していってしまう。

それこそ燃え尽きてしまうその日まで・・
・・・誰にも止めることは出来ないのです。


(続く・・)





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徒然・・
- 2006/07/07(Fri) -

今日は、のんびりしてます。


もう晩ご飯の下ごしらえも出来た!
ハンバーグとポテトサラダとワンタンスープ。
(すっごい定番料理)


だから、考えごとも、お休みします
(絵文字・初使いだ!)


先月から行き始めたパートの会社が
なんだかトラブルがあったらしくて
この1週間、業務整理のためなのか
パート社員は全員お休みを言い渡されていて
来週(月)から再開する予定。

いい休養にはなったけど
あの会社、潰れるんじゃないかしら・・


何があったかなんて、勿論私達には知らされていない・・


最近、派遣会社でも
いい加減なところが多くなっているらしい。
正規で就業できない人が増えているから
その弱みに付け込んで
給料未払いのまま
何ヶ月も働かせてる会社が問題になっていた。


今の会社は派遣じゃないけど
どうも妖しい雰囲気だな・・と思いつつも・・

「もう少し様子を見ようか」「新しく探そうか」
「探すのも億劫だし」「給料貰えなかったらショックだし」
「やっと慣れたから」「でも、しんどいのは凄くしんどいし・・」


なんだかんだとモヤモヤしたまま。


私にとって働くということは
本当に一代事業を起こすほどに大層なことなのに
やっと行ってるのに・・
「格差社会」のお手本的「落ちこぼれ」になってます。


けど!
「ボランティアの陥りやすい落とし穴」に気を付けながらも
明日は電話相談員の養成講座2回目に行ってきます。


やっぱりどんなに分析してみても
前のところには足は向きません・・
しばらくは、距離を置きます。


なんか、ムリしてまでやりたくないから。
悲愴になってまで頑張るのはもう絶対いやだから。


徒然・・愚痴愚痴・・もうお終いにしま~す。


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ボランティア雑感⑥「回復への道」は?
- 2006/07/08(Sat) -

基本的に「関係性の病理」は
自分の行為が生活を脅かすほど有害になっているかどうかを
一つの目安にして
自分を見つめればいいのではないかと思っています。


でも、そこまで行っていなくても
バーン・アウト(燃え尽き症候群)へと自分を追い詰めたり
自分の傷付きを無意識的に人に八つ当たりして
関係のない人に傷を負わせたり
そんなこともありがちです。


ではどうしたらいいのか?
とても難しいです。


メサイア・コンプレックスかなと思ったら
やっぱりまずは自分の中の
「疑問・理不尽さ・不条理さ・怒り」などを
当然のこととして認めることでしょうか。


「ダメで嫌な自分」と思っている自分は
誰でも認めたくありませんが
より深く、当たり前の自分のダメさ加減を
受け入れられるようになると
人にも、そして何よりも、自分に優しくなれます。
(これはホントに楽ですし、人を軽蔑しなくなります)


そして、日常的に
「私は自分なりに精一杯やっているから、それで充分なんだ」
自分を褒めてやることが大切ではないかと思っています。


人の評価を基準にしない。
人の感情に左右されない。
自分のことは自分で決めるんだというような
自分自身を軸に生きていける「自己確立」が
回復への道」ではないでしょうか。


う~む・・
教科書的なだけで、回復しそうにないなあ・・
でも、これが今の私の限界だな・・
これからも活動を通じてまだまだ考えていこうと思います。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ここまで考えてきて、
「関係性の病理」としての「共依存」について
いろいろ思うことが出てきました。

次回から「共依存」について
自分の経験を踏まえながら
考えていこうかなと思っています。


なんせ、どっぷり夫と「共依存」しちゃってたから・・


なので「ボランティア雑感」は
ここで
一応終了しようと思います。



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関係性の病理を考える「共依存」①
- 2006/07/09(Sun) -

共依存-co-dependency」という概念は
1970年代終わりのアメリカでアルコール依存症の治療にあたる
臨床の現場で生まれたと一般的に言われています。
そして、家族からの隔離と同じ依存症に苦しむ仲間との交流が
回復にとってとても効果的だということが分かってきました。


こうした過程で
「回復し始めた人が同じ家族関係の中に戻ると
また飲まずにはいられなくなる」
そんな状況が繰返されていることが分かってきたのです。


こうしてアルコール依存症は
「ただ個人の精神的な問題だけではなくその家族が深く関係している」
と認識されるようになりました。
特に、「イネイブラーenabler」(後押しする人)と名付けられた
「依存症者の依存心に依存して、この病気に巻き込まれながらも
病気に手を貸してしまっている人間の存在」が見えてきました。


これが私です。


依存症本人の回復には、このイネイブラーの変化が
とても重要だとされるようになったのです。


このことを知っただけでも、とてもショックでした。
「いったい私の何が悪いと言うのか!」と。
怒りと悲しみでいっぱいの気持でした。


長年アルコールに溺れ、毎日のように暴言暴力を繰り返し
凄まじい勢いで借金を繰返す夫。
私の毎日は絶望的であり、夫が帰宅する時間になると
立ってさえいられなくなるほどの恐怖に満ちたものでした。


そんな日々に耐え、
「必死に家庭を守ってきたのに!」
「その上まだこの私が悪いというのなら、
全てを投げ出して死んでしまいたい!!」
心の底からそう思いました。


これが私の回復への最初の絶望的な第一歩でした。

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関係性の病理を考える「共依存②」
- 2006/07/10(Mon) -

「イネイブラー」


依存症者の依存心に依存して
この病気に巻き込まれながらも
病気に手を貸してしまっている私という存在???


この、信じられない汚名を背負わされた私・・


「私の生活が、どれほどの苦痛と忍耐に満ちたものであるか
誰も知らないから、そんなひどいことが言えるのだ!!」
理解されない悲しみと怒り・・


でも、真実はそれどころではなかったのです。


この「イネイブラー」の回復は、とてつもなく困難らしくて
単なる「アルコール依存症者の支え手」としてだけではなく
イネイブラー自体が深刻な病理を抱えている」と言うのです。


しかも、こうした深刻な状態にある人間が、
アルコール依存症に限らず
様々な嗜癖者の周りに共通して存在している
という
信じられない事実まで明らかになるのです。


嗜癖者と関係を持って生きている結果として
「自分の生が手におえなくなってしまった人」という
「関係性の病理」をあらわす言葉として成立したのが
この「共依存」という概念だったのです。


それまでは、あくまでも「嗜癖者」の問題が先にあって
その「反応的なもの」として考えられていたものが
実は「共依存」こそが「病理の本質」であり
アルコール依存症などの物質嗜癖は
根源的な「関係性の病理」を示す
二次的な現象に過ぎなかった・・


私?
私が?
私が悪かったと言うの?
なぜ?
なぜ?
なぜ?
こんなに耐えて
こんなに努力して
こんなに・・
こんなに命がけで生きてきたというのに・・


自分のすべてが
瞬時に崩れ落ちていくような衝撃でした。

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関係性の病理を考える「共依存③」
- 2006/07/11(Tue) -

「もうこれ以上、何も知りたくない・・」


それが正直な私の思いでした。


「これ以上真実を知ったら
崩れ落ちていく自分を支えきれないだろう・・」


そう感じながらも
私は、既に、
固く閉ざされていた封印を解く道へと
踏み込んでしまっていたのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「嗜癖行動とは?」


アルコールや薬物や食料のような物質を
身体に摂り入れる行為が嗜癖となって
身体を害してもやめられない飲み方をするアルコール依存症や
シンナー中毒、過食症などを内容とする「物質嗜癖」


物を買うことで店員に喜ばれ
受け入れられる快感によって生まれる買い物依存や
(着るために買うのではないので
手を通さない洋服が何着もあったり
サラ金の借金が払えなくても買い続けたりする)
セックスを提供することで相手が喜び
自分を受け入れてくれることから生まれるセックス依存。
(出会い系サイトなどを利用して
毎日違う相手を探してはセックスするが
必ずしもセックスが楽しくてしているわけではない)
その他、ギャンブルや仕事、宗教など
行為のプロセスを内容とする「過程(プロセス)嗜癖」


さらにこれらの嗜癖の基盤であり根底にある
人間関係の嗜癖である「関係嗜癖」
依存する相手を常に必要とし
依存しないではおられない状態。
人から受け入れられ「必要とされる必要」から
受け入れられるために一生懸命尽くし
その結果その行動が
嗜癖的(やめられない状態)となっている。


そして、この「関係嗜癖」の基本型が「共依存」なのです。


「共依存」は
「安全感とアイデンティティと自己価値観を得るための
強迫的な行動と承認探究に対する
苦痛をともなう依存のパターン」
と定義されています。


それはまさしく
人間関係のあり方の基礎をなすものとしての
「関係性の病理」
なのです。


関係性そのものが嗜癖の対象となってしまっているのです・・

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- 2006/07/11(Tue) -

BADRUNさんの写真に涙する・・


自分の身を
切り刻むようにして書き綴る日々に
BADRUNさんの写真が語りかけてくる・・


透明な優しさが
鋭い刃先となって
私の魂
を撫ぜてゆく・・


胸が・・
痛い・・


痛い・・



 

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関係性の病理を考える「共依存④」
- 2006/07/12(Wed) -

「嗜癖-addiction」とは
強迫観念にとらわれて行うある種の強迫行為のことであり
特に「主体の快体験」のともなうものを指す。


「共依存-co-dependency」
他者あるいは他者の抱える問題への嗜癖
あるいはその問題と関係性への嗜癖である。


「共依存者」
愛や結婚によって嗜癖者との関係に取り込まれ
少なくともアルコール依存症の親や祖父母を持ち
感情障害的な家族の下で成長している。


「共依存者」は
生きる上での安心感を維持するために
自分が求めているものを明確にしてくれる相手を
1人ないし複数必要としている人間である。


「共依存者」は
相手の要求に一身を捧げていかなければ
みずからに自信を持つことが出来ない。


「共依存者」は
自分を価値の低いものと感じ
自分が他者にとって
なくてはならない者であろうと努力する。


「共依存者」は
他者からの好意を得ようとして
自己犠牲的な献身を強迫的に行う。


「共依存者」は
常に他者を第一に考え
みずからは犠牲になることを選択する。


「共依存者」は
他者の行為を自分に影響させる人であり
その他者の行為をコントロールすることに
取りつかれた人である。


「共依存者」は
奉仕心が強く
他者のために自分の身体的・感情的・精神的欲求を
抑える傾向が強い。


「共依存者」は
他者の世話をやくことによって
その他者が自分に依存するように導く。


「共依存者」は
強い向上心を持った完全主義者で
自分は物事を完璧にやれないからいい人間ではない。
方法さえ見出せば完璧にやり遂げられるはずだと信じている。


「共依存者」は
自分と他人の境界が曖昧で
他人の感情の起伏の原因が自分にあると思ってしまう。


「共依存者」は
他者に対して不誠実・支配的で、自己中心的である。


「共依存者」は
策略的な手段を用いる傾向があり
自分の気持ちを直視せず平気で嘘をつく。


そして
「共依存的関係性」
同じような類の
衝動的強迫性に活動が支配されている相手と
心理的に強く結びついている間柄なのである。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


こうして
激しい痛みと強烈な怒りをともないながらも
えぐり出すようにして
浮かび上がらせてきた共依存者の姿は
滅私的に他者尊重を行う、自己犠牲的な献身と
他者を支配しようとする、自己中心的な他者操作という
全く矛盾した二つの世界を
何物かに取り付かれたようにして強迫的に生きる
幽鬼そのもののような人間の姿でした・・

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関係性の病理を考える「共依存⑤」
- 2006/07/13(Thu) -

「共依存」の特徴を、どれだけ並べ立ててみても
自分の状態を自覚することは出来ませんでした。


自分が「どんな風に、どんな意識で、人と関わっているのか」
なんて
自分自身のことだけでも理解は難しいのに
相互作用的な関係性なんて

簡単には自覚できませんでした。


これまでは
自分のいろんな症状を理解することや
その原因を考えることや
そして
何よりも「症状を少しでも軽くしたい」といったことに
すべての意識を集中させて
生きてきてしまっていたのかなと思いました。


客観的な目線で見て
今の自分がどんな人間なのか
社会的な枠組みの中で
今の自分がどう人と関わっているのか等々・・
そんなことにまで
理解が及ぶことは到底なかったようにも思いました。


頭の中の堂々巡りが何ヶ月も続きました。
知識として知っていることと
実際の自分のあり方とが
どうしても結びついてこなかったのです。


そんな頃
私の前に一人の女性が現れました。
57歳、A子さん、結婚生活33年 女の子3人のお母さんでした。


ある日、彼女は
自分の結婚生活や子どもとの生活について
約1時間あまり私に向かって
実に赤裸々に
話してくれる機会がありました。


そこから私の自己理解への突破口が開かれていったのです。


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関係性の病理を考える「共依存⑥」
- 2006/07/14(Fri) -

A子さんが話してくれたその長い結婚生活は
本当に悲惨なものでした。


結婚当初から、何の前触れもなく始る
夫の強迫性の言動に怯えて、四六時中過剰に反応し
取り込まれ、巻き込まれ、振り回されて
自己破壊的強迫的同調を繰返して生きてきた
凄まじい悲惨さがありました。


子ども達にもいろんな症状が顕われていて
一番下の娘はもう10年以上も
転々としながら精神科にかかっているとのこと。


でも、その結婚生活の悲惨さ以上に
私の心を芯から凍りつかせたのは、A子さんが
「すべて自分の愛情ゆえに、なんとか家庭を守ってこれたのだ」
固い信念でそう思い込んでいる姿でした。


ああしなさい、こうしなさいと指図する。
問題行動の尻ぬぐいをする。
問題行動をやめなければ自殺する、別れると脅す。
問題行動のせいで不幸になっている自分を嘆いてみせる。
問題行動をやめさせよう相手を人前で辱める。
絶対に離れられない運命共同体であるかのように仄めかす。
ひたすら不幸に耐えている姿を見せ付ける。


こうした自分の言動を
「すべて愛情ゆえの行為」だと思い込んでいるのです。


何とかして相手を変えようとする彼女の強迫的言動。
でも、その奥底にあるのは
「それをやめてしまえば恐ろしい寂しさだけが残る」
という恐怖だったのではないか。


自分の中の空洞を埋めようとして
人の世話焼きに自己破壊的にまで嗜癖していく・・
でも、それは、
「家族を貪り尽くしてやまない愛の仮面をかぶった自己中心的支配」
でしかなかったのではないか。


私は、彼女の話を黙って聴きながら
何ヶ月間も堂々巡りして考えてきた
自分の本当の姿
まるで合わせ鏡で見せてもらっているような
不思議な安堵感を覚えていたのです。


ああ・・そうだったのか・・
やっと・・わかった・・と。

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関係性の病理を考える「共依存⑦」
- 2006/07/16(Sun) -

まるで私が「自分の本当の姿」に気付くのを
今か今かと待ち構えていたかのように
我が家は一気に転落の坂を転がりはじめました。


夫は、仕事の失敗が度重なり
借金とアルコール依存にますます拍車がかかっていきました。
家での暴言・暴力・奇行も、際限なくエスカレートしていき
いつ事件や事故が起こってもおかしくない程の状態でした。


でも、私はもう、以前の私ではありませんでした。
もう、私にはなにも為す術はなく
泣くことも喚くことも怒ることも怯えることも
何もかもを忘れてしまったかのように
子どもを守り、自分を守るためだけにひたすら働き続けました。
多分もう、何も感じる余裕すらなかったのでしょう。


母から得られなかった愛を求めて
地獄の底を這い回るような生活にまで落ちてしまって・・

死の淵で喘いでいる私を救い出してくれた人でした。
私にとって、母以上に大切な人でした。
私にとって、この世で出会った初めての肉親でした。
私を抱きとめてくれたただ1人の人でした。


今度こそ「愛」を得ようとして
今度こそ失敗は許されないと思って
命がけでしがみついて、しがみついて、しがみついて・・
そして、夫は壊れてしまいました。


荒れ狂う夫を見つめながら
「この人はもうこのまま死んでも仕方ないのかもしれない」
「もしそうなったとしたら・・
それはもう、どうすることも出来ない運命なんだ」
夫と出会って初めて、私はそう思いました。


そして
「でも私は生きよう。きっと生き延びよう。
生き延びてこの子を育てていこう」
そう深く深く決心したのです。


「どん底」が、本当の意味での「どん底」が
私の夫に対する自己破壊的献身が終わった時に
やっと私たちの前にも訪れてくれたのです。

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関係性の病理を考える「共依存⑧」
- 2006/07/17(Mon) -

夫は、車の中で寝泊りしているのか
何日も家に帰らず、ドロドロに汚れては戻ってきて
夜中にお風呂に入り、私が作っておいた食事を取って
一晩布団で休むと、また何処かへ行ってしまう・・
そんな状態が何ヶ月も続きました。


私には,ただ見守ることしか出来ませんでした。
夫の「事故死」や「自殺」さえ覚悟しなければなりませんでした。


それでも
「私は生きていくんだ」という
静かな深い決心は、揺らぐことはありませんでした。


「底を付いた」のです。
苦しみにも絶望にも、「底が在った」のです。


そんな状態が8ヶ月ほど続いたある日
ガリガリに痩せ、白髪だらけの髪をボサボサに伸ばし
殆どの歯が抜け落ちて、虚ろな目を泳がせた
幽霊のようになってしまった夫が戻ってきました。


そして、とうとう告白したのです。


「サラ金20数社に、返しきれない莫大な借金をしてしまった」と。


時を同じくして、離別から10数年ぶりに再会し
数年前から夫と共に商売をしたいといって
400万以上の借金を抱えたまま
家にやってきた前妻の次男も
夫との諍いからやけを起こして競馬に興じ
夫と同様にサラ金10数社に
返しきれない額の借金をしていることが分かりました。


私は2人に自己破産を進め、自分は働いて必死に貯めたお金で
なんとか暮らしを立てていけるよう、引越しの段取りを進めました。


子どもには
「今、家がちょっと大変なのは分かっていると思うけど
お母さんはどんなことがあっても
お前を守っていくから、安心して大丈夫なんだよ」


「いろんな我慢をして貰わなくちゃいけないかもしれないけど
1つだけ、どうしてもお前が叶えて欲しい願いがあったら
それだけはどんなことがあっても絶対守るから
こっそりお母さんに教えてくれる?」
と話し合いました。


子どもは思い切ったように
「転校だけはしたくない」と答えました。


「そうか!分かったよ!絶対転校だけはしないでおこうね!」


こうして、教育委員会や学校に何度も掛け合って
転校せずに済む「新たな家探し」が始まったのです。

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風邪を引いてしまいました・・
- 2006/07/18(Tue) -

夏風邪を引いてしまいました。


熱、咳、鼻水、その他モロモロ・・


しばらくお休みいたします。

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関係性の病理を考える「共依存⑨」
- 2006/07/20(Thu) -


・・・・・・・その家は
都心から普通電車で約40分
山々や大きな自然公園に囲まれた
県境の小さな田舎町にありました。


高架になっている駅のホームから町を見渡すと、
ビルは1つも見当たらず
空がまあるく弧を描いて
どこまでもどこまでも広がっていました。


信じられないほど安い家賃と2台の車が置ける駐車場
その上、4DKという広さに引かれて即決し
1週間で手作りの引越しを敢行。


気が付くと
夫も次男も、そして私までもが
毎日呆然と空を眺め
緑を濃く含ませた風に
傷ついた心身を晒しながら
漂うようにして
互いが何も語ることさえなく
静かに日々の暮らしを営んでいました。


「お母さん、ここは民宿みたいな家だね」


1階のリビングで2人寝っころがりながら
天高く冴え冴えと輝く満月を見上げ
娘が大きく息を吐いて
小さな声でそう呟きました。


「ホントだねぇ。なんだかみんながのんびりしているねぇ」


私達家族は
何年も続いたあらゆる苦しみを束の間忘れ
まるで「ただそこに在る」だけで満たされる
命の原形の姿に戻ったかのように
静かに日々の暮らしを営んでいました・・

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関係性の病理を考える「共依存⑩-終ー」
- 2006/07/21(Fri) -

私や、私の家族が
本当に回復したと言えるのかどうか
私にははっきりとはわかりません。


ただ
人生が次々と起きる問題解決の連続である以上
回復もまた
常にそこへと向かう過程の連続なのかもしれない。
そんな風に感じています。


刻み込まれてしまった思考や行動のパターンを
たとえ少しずつでも変えていくことができたなら
いつか、ふっと過去を振り返った時に
今みたいに
「ああ、そう言えばなんだか前より生きているのが楽しくなった」
そう思える日がまた来るような気がします。


そんな風に回復への道を1歩1歩と歩んで行けたら
それが私が生きた「真実の軌跡」なのだ
そう思っています。


これまで私が知ったこと、思ったことは
本当にたくさんありました。
今まではそれらすべてを
「大きな諦め」と名付けて
大切にしまってありました。


少しだけ、できるだけ
その思いを言葉にしてみて
この「共依存」を終わりにしようと思っています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ただ人が
「生まれること」も「死ぬこと」も
私の「意志の力」や「努力の力」などというものを
遥かに超えたところにあるのだということを知りました。


自分も人も
何か目に見えない大きな不可思議な力によって
導かれて生きている・・
そんな不思議な感動を知りました。


そして
どんなに頑張ってみても
どんなに執着してみても
どうにもならないことがある・・
当然「理不尽な死」さえも
決して避けることは出来ないのだと知りました。


自分の「無力さ」や「弱さ」
自分の「運命」を受け入れた時
私の奥底にいつもあった
捨てられ無視された赤ん坊の
「耐えがたい絶望や怒り」も
自分の大切な「弱さ」であり「感情」なんだ
と思えるようになりました。


私は私の思考を超えた
大きな不可思議な力の流れにそって
自然に生きるしかないのだと思うようになりました。


でも
だからこそ
与えられたこのわずかな人生を
暖かい気持ちで人に接し
すべての生き物を慈しみ
自分に出来ること1つ1つを大切に
行動を起こして生きていきたい
そう思うようになりました。


以上です。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(終)

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世代間連鎖を考える①
- 2006/07/23(Sun) -

秋田の連続児童殺人事件は本当に悲しい事件でした。
連日、ワイドショーなどでコメンテーターが
「虐待の連鎖」という言葉を使っています。
私は「一体どこまで本当に理解されているのだろうか?」と
いつも辛い気持ちで聞いています。


当然、私にとっては
自分の問題以上に
最も恐れ続けてきた課題でもあったからです。


虐待はずーっと昔から
人間社会と共に存在した暗い闇の歴史です。
本来、大切に慈しんで育てられるはずの子どもが
最も身近な大人たちによって踏みにじられているという事実は
あまりに理不尽であり
理不尽であるからこそ否認され
闇から闇へと葬られてきた人間社会の事実です。


でも、現代社会の養育機能はどんどん低下を続け
虐待によって生命の危機に晒され
そのライフサイクルを通じて
重大な発達のリスクを抱えるであろう子ども達の増加を
とうとう無視できない状態にまで迫られてきました。


虐待は、人が自分では意識しにくい
深く激しい葛藤による現象であるため
これに関わる人間は押し並べて
深く複雑な情動を激しく揺さぶられてしまうのです。
ここに、適切な援助を困難にする要因があるといえます。


これまで虐待は
「虐待する人」個人の病理として問題にされ
「人でなし」としてその個人を糾弾することに
終始してきました。
最近になってようやく
子どもを取り巻く家族やその所属する小集団の
複雑な力関係や関係性の病理として
考えられ理解されるようになってきました。


その虐待の理解に欠かせないのが
「心の葛藤の世代間連鎖」であり
虐待の援助にも決して欠かせない重要な視点なのです。

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世代間連鎖を考える②
- 2006/07/24(Mon) -

「心の葛藤の世代間連鎖」とは
親自身の、未解決の心の傷や親子関係の葛藤が
誰にも理解されないまま深く抑圧され
なんでもない日常のなかで
突然、無意識に、子どもに伝わっていくことを言います。


この「葛藤の世代間連鎖」は
特に、第二次世界大戦で
ナチスのユダヤ人迫害から逃れて生き延びた人たちや
強制収容所から生還したユダヤ人の子どもや孫たちが
自分は知らないはずの親の迫害の恐怖に怯え
いろんな心理的な障害に陥っていった例として報告されました。
(Kestenberg,J.,Pines,D.,)


隠蔽されていたトラウマが
次の世代の心の病に繋がっていったのです。
心的外傷の長期的影響といえます。
親の苦悩がその子や孫の
精神病理や性格形成に連鎖していくのです。


外傷体験が癒されないまま心に埋もれていくと
長い年月にわたって、その人の人格形成や対人関係を歪め
偏狭で苦しい生き方にその人を追いやってしまいます。


また、虐待の精神病理が連鎖するのではなく
親自身が虐待を受けて愛着体験が歪み
その歪んだ愛着パターンが連鎖するという指摘もあります。


「我が子を愛したい・・」と願う気持とは裏腹に
不幸な自分の親との葛藤を
再び我が子に繰返してしまう。
虐待、未婚妊娠、アルコール依存などの背景に
こうした連鎖が作用しているとも言われています。


心のトラウマは、悲惨な体験をした本人にしか
本当のところは解からないだろうと思います。
内なる深層心理のどろどろとした激しい情念の現象です。
親が、どんなに自分の悲惨な体験を隠して子どもを守ろうとしても
真実はいつか必ず表面化します。


親の押し殺した葛藤を
その深く内在する無念や怨念を
親の顔からつぶさに読み取るのが我が子です。


親子ゆえの絆の深さが、たとえ無意識の情動であっても
堰き止めようもなく伝播させてしまうのです。

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世代間連鎖を考える③
- 2006/07/25(Tue) -

「世代間連鎖」
虐待などの深刻なものだけではなくても
しつけの方法や子どもとの遊び方
家事の取り組み方など
日常生活のすべての面での
良い特質も悪い特質も
親子関係全般が連鎖していきます。


その人らしさといった
性格などが形成されていくプロセスでも
ごく身近にいる
自分にとって重要な人間(親など)をお手本にして
無意識にその人の特徴を取り入れていきます。


それは行為だけではなく
価値観においても生じてきます。


その後の成長過程でいろんな事を学び
子育てのマニュアルなどもたくさん読んだなら
幼児期の学習がそのまま再現されることなど
ありえないように思えるかもしれません。


でも、そうではないのです。


日々がストレスに充ちた現代社会の中で
孤立し不安と焦りの中で行われる子育ては
理性などあっという間に吹き飛ばしてしまいます。


感情的・衝動的になってしまった時に
一気に古い記憶が蘇り
無意識のうちに再現してしまうものなのです。


「あの悲しみを、2度と味わいたくない」
心からそう願っているのに
容赦なく再現されていく悲劇・・


でも、その存在に気づいた時から
連鎖の鎖は弱めることが出来る。
自分が過去の親子関係に
操られていることに気付いた時から
呪縛の鎖を解き放ち
次の世代へと容赦なく攻撃を加えてしまう悲劇を
2度と繰返さなくてすむ。


私は
そのために
これまで自分が考え
学んできたいろいろなことを
もっと明確に言葉にして
深めていきたいと思っているのです。

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世代間連鎖を考える④赤ちゃんの世界
- 2006/07/26(Wed) -


「赤ん坊というものはない。
   赤ん坊は常に赤ん坊と母親という対として存在する」 
                        (Winnicott,D.W.)


胎児は、胎生期20週ころには
全身の感覚器官がほぼ完成していて
羊水の中で遊泳を楽しんだり
指しゃぶりをしたり
耳をすましたりして
安定した感覚体験を楽しんでいるそうです。
              (Kestenberg,J.ら)


この頃から
新生児期にかけての赤ちゃんの感覚体験は
「無様式知覚」と呼ばれる感覚体験で行われます。


「無様式知覚」とは
母親の声の音色の強さや弱さ、抑揚
眼差しの柔らかさや冷たさ
身体の緊張の強さや弱さなど
情緒の本質を感知するものです。


だからこそ
親の無意識の不安や緊張
苛立ちや焦り
敵意や抑うつ感情さえも
乳幼児は全身で感知してしまいます。


母親に不安や苛立ち
敵意などがあると
母親の乳幼児への応答の仕方に
微妙なテンポのずれや
機械的な冷たさなどの特徴としてあらわれ
乳幼児はそれを
「不快なもの」として感知するのです。


生後9ヶ月ころには
乳幼児は敏感に頼っている人の感情を見抜き
反応する力を持っているといわれます。


乳幼児は親の本音の苦悩まで
察知し吸収しているのです。


この「親と乳幼児の相互作用」の段階で
すでに親自身の親子関係の特徴やパターンは
乳幼児との間で反復され
「葛藤の世代間連鎖」を示す傾向が認められます。


親が乳児の行動や要求を
歪んでとらえて感情的に反応するので
乳児は偏った反応を強いられていきます。


すると、葛藤的な親と乳児の相互作用は
すぐに悪循環に陥ってしまいます。


乳児は
異常な行動や症状を示すようになり
このことがさらに
親と乳児の葛藤を高めていき
ついには危機的な状況にまで悪化し
親がとっさに
衝動的に
子どもを痛めつける行動にでてしまったりするのです・・


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世代間連鎖を考える⑤無意識の世界で起きていること
- 2006/07/27(Thu) -

「乳児期に個人の病理というものはない。
    あるのは赤ん坊と母親の
       (あるいは他の養育者)関係の病理である」
                   (Winnicott,D.W.)


虐待する親子関係の
深く激しいイメージは
無意識のものです。


養育者が
乳幼児によって誘発される原始的な情動は
かつて自分が乳児として感覚的に生きていた時の
不安、恐れ、怒りなどの
「原始的な身体感覚的記憶」であり
無意識のものです。


周産期や乳児期に
虐待や無視、見捨てられながら
耐えて生き延びた人に
湧きやすい情動といわれています。


特に乳児と2人きりのときに襲ってくるため
周囲にはなかなか理解されにくいのです。


母親は
要求の激しい乳幼児を
自分を苛める暴君のように感じたり
我が子に迫害されているように錯覚して
自己防衛的に乳幼児を拒絶し
負けまいとして危害を加え
障害や死に追いやる危険があります。


また
親に虐待を受けた子どもが成長して
今度は自分が加害者になっていくメカニズムは
「攻撃者への同一化」が有名です。


虐待を受けた人は
深い見捨てられ不安と
心身の苦痛に苛まれながら生きています。


被害者から加害者になることは
心に焼きついた
「心的外傷を逆転させる効果」があるのです。


自らが受けた虐待の痛手から
自分を守ろうとして
危害を加えた人に同一化し
自分もまた
加害者になっていくのです・・

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世代間連鎖を考える⑥無意識の世界ー「赤ちゃん部屋のおばけ」
- 2006/07/28(Fri) -

乳幼児精神医学の研究者である
フライバーグ(Fraiberg,S.,)は
「赤ちゃん部屋のおばけ(ghosts in the nursery)」
という現象を発見しました。


スラム街の乳児虐待の
早期介入を行ったフライバーグは
乳児が母親の深い記憶を蘇らせて
母親を脅かす現象を目撃し
その現象を
「赤ちゃん部屋のおばけ」と呼んだのです。


特に周産期に母親が乳児と2人きりでいる時に
不意に母親を襲う
言葉には言い表せない
不安、恐怖、苛立ちや嫌悪感などの
原始的な深い情動を指します。


例えば
自分が親にされたことを
意識的には「決してやるまい」
と思っていても
赤ちゃんが泣くたびに
かつて泣き叫んでいた
「赤ちゃんの自分」が感覚的に蘇り
赤ちゃんといることで
強い緊張と不安を生み出します。


特に
乳児のなんらかの特徴が
自分を虐待した人間の
イメージと結びついてしまうと
「いつも私を怒鳴りつけていたあの母のように恐ろしい子」
といった、ありえない、非現実的なイメージを
強く持つようになってしまいます。


すると
それが「無様式知覚」で赤ちゃんに伝わり
赤ちゃんはますます激しく泣き叫ぶ
という悪循環が起きてしまい
結果的には、赤ちゃんを拒絶し
虐待が起きてしまう・・


こうして
意識的には「決してやるまい」と
どれほど決心していても
「どうしても、・・・やってしまう」
という世代間連鎖のパターンは
虐待だけではなくて
他の心理的問題にも
数多く認められるものなのです。

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世代間連鎖を考える⑦無意識の世界ー「死んだ母親コンプレックス」
- 2006/07/29(Sat) -

「赤ちゃんを抱いていると、なぜか解らないけど
        気持が落ち着かなくて、怖い・・」



そんな深い不安を持つ母親は
自分自身の乳児期に
実母の抑うつや
次の赤ちゃんの死産などの
暗い出来事が起きている場合があります。


流産や死産
肉親の死の悲嘆や病気の不安
不幸な嫁姑や夫婦関係など
様々な葛藤で悩む母親が
育児をしながら
ふと、暗い気持に落ち込み
乳児の世話どころではなくなると
乳児はそれを敏感に察知します。


一生懸命声を出して笑いかけ
なんとか明るい母親を取り戻そうとします。


でも、それでも母親の暗さが長引くと
繊細な感受性の乳児は
「暗い死んだような母親の姿」を取り入れてしまい
精神病理のリスクにつながると言われています。


フランスの精神分析家グリーン(Green,A.)は
このような母親像を抱く乳児の状態を
「死んだ母親コンプレックス
(the dead mother complex)」
と呼びました。


母親の暗さや
母親との死んだような関係は
乳児の生き生きとした情動を抑え
無表情、緊張、視線回避などの
偏った防衛反応を誘発し
赤ちゃんは歪んだ精神発達や
愛情遮断症候群(注)を呈したりするのです。


また、母親自身が
実母の苦労や精神障害
親との離別や死別
自分自身が
親に甘えることができなかったなどの辛い体験で
「暗い母親像」を抱いていると
不安感に覆われた
不安定で緊張した育児を行いやすくなります。


親子心中などの深刻なもの以外にも
今の社会では
育児が母親中心で行われているため
赤ちゃんの言語発達や対象像・自己像の発達
また社会的スキルの発達など

多様な障害になることが明らかにされています。


(注)愛情遮断症候群


「愛情遮断性小人症」
「精神性・社会性小人症」ともいわれる。
母性的養育が剥奪されたことによって
子どもの心身両面にさまざまな発育障害が生じるもの。
不適切な養育(ネグレクトあるいは情緒的虐待)と
これに基づく愛着(アタッチメント)の形成不全にある。
成長ホルモンの出が少なくなることもあり
身長が伸びない等の身体発育遅延、
筋緊張低下、表情の乏しさや精神発達の遅れなど
様々な症状が出てくる。

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世代間連鎖を考える⑧親子の幸せのためにー「ドゥーラ」
- 2006/07/30(Sun) -

アメリカの医療文化人類学者
ラファエル女史は
   「自然界でも人間の歴史でも
   女性(雌)が妊娠・分娩・育児をするときは
   必ず女性どうしの助けあいが行なわれていた」
と言っています。


その「助け人」のことを
「ドゥーラ」と言います。
周産期に
いろんな身の回りの雑用を手伝ったり
母親を優しく勇気づけたりして
母親の緊張や不安を
緩和してくれる女性です。



動物の世界では
イルカは陣痛がはじまると
仲間の雌のイルカたちが
母親イルカをとり囲んで泳ぎ
赤ちゃんが生まれるのを助けます。


さらに生まれてきた赤ちゃんに
息をすわせるために赤ちゃんをつきあげて
海面に押し上げることもやるのです。


ゾウも陣痛がはじまると
ほかの雌のゾウたちが
母親ゾウをとり囲みます。
外敵に襲われないように
分娩中の母親ゾウを守るのです。
 
こうして母親は
安心して子どもを生むことができます。


生むのは母親ですが
周囲が心身ともに母親を支え
優しく勇気づけてあげるのです。


先進国にも
かつては「ドゥーラ」がいました。
現在でもアフリカや中近東といった
伝統文化の社会にはいます。


そのほとんどが女性です。
母親は
経験豊かな女性たちに囲まれて
安心して赤ちゃんを生んだのです。


「ドゥーラ」は
専門家である必要はなく
素朴で暖かく
信頼できる女性であれば
それで充分なのです。

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世代間連鎖を考える⑨親子の幸せのためにー「ドゥーラ効果」
- 2006/07/31(Mon) -

アメリカで発表された研究では
「ドゥーラ」がいたケースでは
分娩時間が大幅に短くてすみ
「ドゥーラ」がいなかったケースでは
その倍近くもかかっています。


また
帝王切開や難産・仮死状態の出産なども
「ドゥーラ」のいたケースのほうが
そのような事態が発生する頻度が
明らかに少なかったのです。


さらに
大量出血のような妊娠合併症の頻度も減り
産褥熱ばかりでなく
生まれた赤ちゃんの
感染合併症も少ないこともわかりました。


初めてのお産では
母親が強い不安をもつのは当然です。


不安やおそれが高まると
アドレナリンが大量に分泌されます。
それは血管を収縮させる働きがあるので
子宮に流れこむ血液の量をおさえ
子宮の収縮力をおさえてしまいます。
それで分娩時間が長びき
胎児が仮死状態になることもあるといえます。


産褥熱や新生児感染症などの
合併症が少なくなるのは
母親や新生児の免疫力(感染抵抗力)が
サポートされることで高まり
胎盤を通って赤ちゃんにも
移るからと考えられています。


心理的な面でも
信頼できる一人の人がそばにいて
母親を包み込み
母親が安心できる暖かい接し方で
母親の心細い気持を充分に受け止め
「それでいいんだよ」と支えることで
早期に葛藤をほぐすことができます。


母性的な存在が寄り添うことで
母親が心から安心することが
とても大切なのです。


それとは逆に
身近な女性であるはずの
助産師や看護師・保健師などが
指示的・権威的に
育児のあるべき姿を押し付けたりすると
母親は途端に自信を失って落ち込み
そこに母親自身の不幸な生い立ちが加わると
不必要な虐待が誘発されることになり易いと言えます。


母子のための場が
母子を傷つける場と
なってしまうこともあるのです・・

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