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卒業式
- 2007/03/01(Thu) -


    sotugyousiki.jpg     kadan.jpg


今日は高校の卒業式。
合格発表を待たずに。


「全然実感湧かないし、どこか上の空の感じ・・・」と言う。


でも、そのほうがいいのかもしれない。
受験に失敗して途方に暮れている時に、
希望に燃えている仲間を見送らねばならない人も出てくるのだろうから。


どことなく、みんな幼い。
中学生の様。
そして、ドラマの中の「卒業生」を演じているような
空々しい、ワザとらしい、涙・・・


こんな風に感じる私は、
高校は不登校で3度も変わって
長い時間をかけて20代でやっと卒業した。


保護者の「交流会」は欠席し、疲れきって帰宅。


「やっぱり、学校って、何から何まで苦手・・・」


 


追記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

列車脱線:門出の日暗転 高校生ら互いに手当 北海道
 卒業式の朝、事故は起きた--。
1日午前、網走管内美幌町美禽(みどり)のJR石北線踏切で起きた
列車とトレーラーの衝突、脱線事故。
列車には卒業式に向かう高校生も大勢乗車していた。
人生の門出の日に見舞われた思わぬ悲劇。のどかな農村に衝撃が走った。

夕食の時に知りました。
同じ様に卒業式に向かう車中での事故・・・
子どもたちの心身ともの一日も早い回復を祈る思いです・・・

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もう1つの外傷⑦家庭で何が起きるのか
- 2007/03/02(Fri) -

イギリスの精神分析医R.D.レイン
「慈悲心や愛情を装いながら、他人から精神的に搾取すること」を
ミスティフィケーション(Mystification)と言う概念で提唱した。


それは例えば、
子どもが漫画を読んでいる時に親が
「おや?どうしたんだ?お前はこんな漫画よりも、
もっとちゃんとした本の方が好きだろう?」などと言って
子どもから漫画本を取り上げて、
文学作品などの本を与えるような介入の仕方をする。


文学作品の本を与えられた子どもは
本当は漫画本を読みたかったので不満だったのだが
親に「この本の方が好きだったろう?」と言われたので
「ああ、そうか、自分はこの本の方が好きだったんだ」
と、思い直したりする。


そして、本当は漫画本を読みたかったという
子どもの本当の欲求は押し込められ
あたかも「文学作品が漫画本よりも大好き」な
おりこうさんの子どもを演じるようになってしまう。


ミスティフィケーションは、
子どもが他者(親など)のメッセージを
あたかも自分の意志であるかのように感じてしまう点で
二重拘束(Double Bind)ーもう1つの外傷⑥参照ーよりも
さらに巧妙に子どもを支配する。

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雛祭り
- 2007/03/03(Sat) -

              hinamaturi.jpg


手作りの雛祭り。


夕食に簡単なひなちらしとハマグリのお吸い物を作る。


そして、2月23日に
池田晶子氏が進行性の腎臓ガンで亡くなっていたことを知る。


おそらくは、彼女の絶筆となったであろう
「君自身に還れ―知と信を巡る対話」
をネットにて注文する。


享年46歳・・・






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サバイバーからスライバーへ⑤スライバーの特徴
- 2007/03/04(Sun) -

スライバーとは
「サバイバーであることを主張する必要のなくなった人」のことで
以下のような特徴を備えている。


ひとりで居られる、ひとりを楽しめる。
それは、理解してくれそうな人、共感してくれそうな人を
必死で探す必要がないということ。
この術を身につけると
人から裏切られるという辛い思いをしないですむようになる。
他人を責めなくなり、逆に他人にやさしくなる。


さびしさに耐えられる
もう1つの外傷⑤無条件の愛参照

親のことで過剰なエネルギーを使わない
憎んだり、恨んだり、「賠償金」を取り立てようとしたり、
依存したり、甘えたりしない。
「ああ、あの人はかつてわたしの親でした。
限界のある親でしたが、わたしを愛してもくれました」
そんな状態になること。


自分にやさしい
あるがままの自分を受け入れているということ。
欠点や限界も含めて
自分というものを愛し、いたわることができる。
決して自らを叱咤せず、萎縮させない。
たとえ失敗しても、
その自分の失敗の経過そのものに関心を持つことができる。


他人(世間)の期待に操られない
分で選択し、決定する
ゆとりが出来てくるので
自分の前に幾つかの選択肢が横たわっていることに気づける。
不安、緊張、恐怖にとらわれているときは、
とるべき道がひとつしかないように感じる。
選択肢がない人生を歩いているとき、
人はその道を宿命と言う。
安定し、成長してくると目の前の幾つかの分岐のうち、
どれか一つを選び続けることが人生なのだと考えるようになる。
自分の欲するところに従って選択することができるのはスライバーの特徴。


自分の選択したことに責任を取れる
選択を間違えたとき、それを他人のせいにしない。
生じたマイナスは、自分の力で少しずつ埋めようとする。
現実的で、失敗の経過から学ぼうとする柔軟さがある。


自分は世の中に受け入れられてあたりまえという確信を抱いている
自分は他人に必要とされていると信じ、
誰かに愛されて当然と思っている人は、人に愛される。
世の中を肯定的に見る習慣を身につけていると、
周囲の多くの人々がやさしく温かい人のように感じられてくる。
そのように思う人に、世間の人はやさしくなる。
こうしてスライバーの確信は現実となっていく。


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疑問
- 2007/03/05(Mon) -

「健全」ってなんなんだろう?
「スライバー」についての「まとめ」を続けながら
ずっと、そのことが引っかかる。
喉に刺さった魚の小骨のように。


そんななか
浮かんでは消え、消えてはまた浮かんでくる3つのキーワード。


「べてるの家」
北海道、浦河。
海辺の過疎の町に、精神障害者たちが共同生活を営む家。
「そのままでいい」と語り、弱さを絆に新しい生き方を模索する人々。


そして、かつて「反精神医学」と呼ばれ、批判され消えたとされるもの。
病の原因を社会に見出し、普通の医療を否定して社会の変革を主張した。
広い意味では原因は社会でもあり、解決方法もまた社会にもあるとする。


3つ目
最近読んだ「生き延びるための思想」ー上野千鶴子著ー
「男性並み」をめざすことで袋小路に陥ってしまった
(リベラル)フェミニズムの思想的な陥穽を衝き、
「弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想」
としてのフェミニズムの立場から、
国家・暴力・市民権を問い直すと言う本。


「弱さを絆にする新しい生き方」


「普通の医療への否定」


「弱者が弱者のままで尊重される」 


普通であることや、健全さへのこだわりは
「弱者から強者へ」上昇しようとする
新たな際限ない欲望の姿でしかないように思えるのだ。


そこに待ち受けるものは・・・もう私には解っている・・・

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自分を慰める方法・・・その1
- 2007/03/06(Tue) -

哀しいこと、辛いこと、人生の失敗などがあった時
自分を慰める方法を持っていると
逆境から早めに抜け出すことができて
自己評価が上がる、とか。


155の「自分を世話する方法」が記載されていた。
その中で、今すでに「お気に入り」で
自分が実行していたことを書いてみる。


空を見上げる
毎朝、家族を見送りに玄関から出て、
昇ってくる朝陽を見上げるのが好き。


やり残していることを完成させる
たとえば、気持ちが落ち着かず
家の中をうろつく熊のようになっていたら
まず編みかけのコースターを取り合えずは仕上げてみる、とか。
結構よく使う手だな。


昼寝をする
ああ、これはだーーい好き!(笑)
民宿のようなこの家に引越してきてから
だんだん罪悪感を感じることもなく堂々とお昼寝が出来るようになった。
私も立派なグウタラ主婦の仲間入り!


猫をなでる
子どもの頃から、犬や猫、小鳥だとか、金魚だとか・・・
とりあえず、何がしかの生き物がいない暮らしは1度もなかった。
一人暮らしのどん底時代は別として。
生き物のいない暮らしは、考えられないのかもしれない。
特に、猫!
抱きしめて、頬ずりして、暖かで柔らかい身体を撫でていると
本当に幸せな気持ちになる・・・


日誌を書く
小学2年生の時、お年玉で日記帳を買って以来
長い間の習慣となっていた。
5年ほど前に「突然自分が死んだ時、後始末が厄介だ」
と思い始め、一切書くのを辞めていたが
今はこのブログが、自分のための「日誌」かもしれない。


誰かに肩を揉んでもらう
夫以外の人になら、よく揉んでもらう。
夫には、触れられたくない・・・


詩を書く
ホントに誰にも見せない詩。
詩を読んだり、書いたりすると
心が落ち着く。


朝早くおきて静けさを味わう
私の朝はとても早い。
安物のボロ家に住んでいるが、部屋数だけは結構あって
家族4人全員が個室を持っている。
私も一人で寝起きしているので(PCもその部屋にある)
早朝3時半頃から起き出して
シンとした部屋で考えごとをしたり調べ物をしたり。
これを書いているのも朝の3時半に起きてから。
朝の用事を開始する5時過ぎまでが、とても大切な自分の時間。


いらなくなったものを捨てる
整理整頓は小さい頃からの私の特技。
押入れの天袋から、小さな机の引き出しまで
どこに何が入っているか、ほぼ全て掌握している。
年に何度かは点検して、捨てるわ~捨てるわ~、凄い勢いで。
家族からは恐怖の「捨て魔」と恐れられている(笑)
私には過去の遺物は必要ない。
常に過去を清算して、前だけ向いて生きるようにしないと
重くて、辛くて、歩けなくなる・・・からかな?


(この自己点検、面白いからまだまだ続けます。)

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自分を慰める方法・・・その2
- 2007/03/07(Wed) -

今日は、去年勤めていたパート先が突然閉鎖し
未払いのままになっていた2か月分の給料の
立替払いを受けるため、労働基準監督署へ行く。


300人近いパートの賃金が未払いのまま、事実上倒産状態になっていた。
数人が(私も)労基へ賃金支払いの申し立てに行ってから数ヶ月。
すでに忘れていた・・・ってか、諦めきっていたかな。
今は子どもの大学進学で相当無理な出費をしているので
この思いがけない収入は、とても嬉しいことだった。


駄目モトで、やっぱりやるべきことはやっておくものだな、
と改めて人生勉強した気分。


で、「自分を慰める方法ーその2


軽い運動をする
慢性的なトラウマからの回復においても
まずは最もベーシックな、
身体を変えることから始めるのがとても大切だ。
私の運動はとても簡単。ネットで知った「真向法」を一回5分ほど。
それだけども続けていると、気持ちが随分前向きになれる。
身体が柔らかいと、思考も柔らかくなるような気がする。
あくまで、気がするだけだが(笑)


押入れの整理をする
整理整頓が特技の私にはぴったりだ。


罪の意識に苛まれず、楽しんで怠ける
これができるようになったのは本当にここ数年のこと。
そんな簡単なこと・・・でも、これは、
心から自分を理解し、許し、受け入れることができないと、
とうてい無理な相談なのだ。
私は子どもの時から「~ねばならない」
「~なことをしていては駄目だ」的思考がとても強く
少しでも自分が楽しかったり嬉しかったりすると
それだけで罪悪感を覚え、際限なく落ち込んでいった。
食事の楽しみも全く解らず、
とるのを忘れて、胃潰瘍になったことも何度もあった。

勿論、その原因の一端は
幼い頃から、私が喜んだり嬉しそうな顔をちょっとでも見せると
容赦ない母からのイヤミ、罵倒、嘲笑を
浴びせられ続けて育って来たからだけど・・・263
今は・・・ちょっと怠け過ぎの観さえある・・・
自分の今の自堕落さがこわーーーい!!


なんだか最近、妙に軽いノリで書いてるけど
まだこのまま続く・・・気配。



 

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自分を慰める方法・・・その3
- 2007/03/08(Thu) -

                            hayasi.jpg


ここ数日、「自分を慰める方法」を読んでいて、今朝ふと思いつき
早朝、家の近くの自然公園を1時間ほど散歩する。


多くの草木に囲まれて歩くと、本当に心身が生きかえる思いがする。


こんな素敵な公園がすぐ近くにあるのに
なぜ今までほとんど行っていなかったんだろう??


これからの季節、数々の花々も咲きはじめる。


時間を見つけて、しばしば散歩に訪れようと思った。


 


で、今日の「自分を慰める方法・・・その3


一つずつものごとをする
いつだったか・・・随分前に、
職人さん達の話を聞くテレビ番組があって
まだ中学を出て1~2年位の一人の板金塗装工の少年が
「仕事で失敗が続いた時ほど、焦らず、慌てず、丁寧に・・・
焦らず、慌てず、丁寧に・・・・と、自分に言い聞かせながら
一つずつ作業を進めていくと、必ず上手く行く」
という様なことを話していた。
「なるほどなあ~」と、私は何故かストンと納得してしまい
以来、料理や掃除や、家事全般をこなす時
自分で心掛けることの一つになった。


当時はまだ鬱がよく出ていて
そうなると身体が全く動かなくなって
家事をすることが泣きたくなるほど苦しくて・・・


でも、夫は、完璧に家事をこなしていないと
さらに暴言・暴力がエスカレートするので、「何が何でも」と、
必死に、這ってでも、たとえ一日がかりでも、すべてをこなしていた・・・
(今思えば馬鹿だなあ~自分のせいじゃなのに・・・と思うけど)


そんな時「焦らず、慌てず、丁寧に・・・焦らず、慌てず、丁寧に・・・」と
繰り返し繰り返し呟きながら、自分に言い聞かせながら、家事をすると
何故か不思議に、今、目の前の作業にだけ集中することができて
終わった後には、とても大切な大仕事を
見事に完成させたかのような心からの満足感を得ることができた。


大したことはなにも出来ない私にとって
今でも家事は大切な私の一大事業なのかもしれない。

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合格発表
- 2007/03/09(Fri) -

娘が受験した大学の合格発表があり、某国立大学に合格する。
私の部屋のパソコンからネットで合否結果を確認。
本人は自信があるような・・・ないような。
自分の受験番号を見つけて、
「あった~あった~」と涙を滲ませて喜んでいた。


外から見ているより、
相当プレッシャーやストレスがかかっていたのだろう。
私に抱きついて喜んでいた。
あまりそういう大袈裟な言動はしない子どもなので
こんなに喜んでいる姿を目の当たりにしたのは初めてかもしれない。
「生まれてから今までで一番嬉しい!」と。


ーーーー良かったね。ホントに別人のように勉強していたね。
ーーーー頑張りが報われて、ホントにおめでとう!!


学費の安い大学に入ってくれたことは、
親としてはホントにありがたいこと。

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娘、倒れる・・・
- 2007/03/10(Sat) -
大学の合格発表があって間もなく
何の前触れもなく、
突然、娘が意識不明、呼吸停止の状態で倒れる。
そばに私がいたので、すぐに気づいて救急車を呼ぶ。
見る見るうちにチアノーゼを起こし、
唇がどす黒い紫色に変わっていく。

「ああ、この子は、今ここで死ぬんだ・・」真っ白な頭の中で
なぜかシーンとした気持ちでそう思った。

救急車が来るまでの間、気道確保、心臓マッサージ、
固く閉じている口をこじ開け喉に手を突っ込むと、
フッと息を吹き返し、間もなく意識も戻る。
その間約2分。

10分もしないうちに救急車が来て病院へ。
CTや脳波、血液の検査を受けるが特に何の異常も見られない。
MRIの予約を入れ、点滴だけ済ませて6時間後に帰宅。

眠れないまま、娘のそばで朝を迎える。
脳神経外科の名医と呼び声の高い医師のいる病院へ
来週火曜、再度連れて行くことを
明け方、眠っている娘の顔を見ながら決心する。

人生は理不尽で無常だ。
でも、人間はその絶望と戦うことができる。
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自分を慰める方法・・・その4
- 2007/03/11(Sun) -

娘は、強い硬直を起こしたせいか、
身体中が筋肉痛のようになっているらしい。
ところどころは打撲を負ったようになっていて
顔も上半分がやや土気色に変色・・・
顎が痛くて口が少ししか開かない。
凄い衝撃だったんだろう。
でも、それ以外の後遺症は今のところは出ていない。
楽観主義で、
でも緻密に検査だけは受けていこうと思う。

ふーーーー。それにしてもびっくりした・・・
あの時の娘の顔が頭にこびりついて離れない。
またいつ起きるかと、少しビクビクしている。
いろんなことが起きるなあ~ホントに・・・もう・・・。



で、まだ続く「自分を慰める方法・・・その4411


008.jpg


「自分は自分のままでよい」と声を出す
声に出したことは多分ないと思うけれど
不安が強まって来る時は
自分の胸に手を当てて静かに目を閉じ
そっと赤ちゃんをあやす様にトントンとしながら
「大丈夫・・・これでいいんだよ、このままでいいんだよ・・・」
と自分自身に語りかける。
いつ頃からだろう?
自分の中の赤ちゃんのままの自分に
自分が母親になって
抱きしめ、あやし、泣き止むまで語りかけてやる・・・
そんなことが身についてから
自分に対しても人に対しても、
優しい気持ちになることが多くなった気がする。
大抵の人を受け入れ、許せるようになった気がする。
深いところで人間を
理解することが出来るようになったのかもしれない。
愛することはまだできなくても・・・

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母、うちに来る。
- 2007/03/12(Mon) -

昨日、母が丁度1年ぶりに家に来た。
昼過ぎ、電話がかかってきて「今から行く」と言う。
昼から娘の入学準備の買い物に出かける予定だったので
そのことを告げるが、「どうしても今日行きたい」と言う。


いつもの事ながら、言い出したらきかない。
自分の思い通りにことを運ばないと気に入らない。


買い物は諦めて承諾する。


ざっと家の掃除を済ませ、普段はしない化粧をする。
いまだに母に会うのに緊張している自分に苦笑。


駅まで迎えに行って、家に招きいれる。


母は、娘の大学合格のお祝いを手渡してくれた。
78歳。元気だがもう本当に老人になってしまった。


何でもない話をしながら
年老いて少し穏やかになった母を嬉しく思う。


あと何年生きていてくれるのか分からないが
今年は足繁く母の家に通って
親子の真似事をしてみたいと素直にそう思う。


心底、母を憎み、恨み、呪った日々。
今はそんな激しい感情も、燃え尽きて天空に消えたのか・・・


これからの短い年数を
親子の真似事をして過ごしてみたいと、
帰って行く母の後ろ姿を見ながらまたそう思った。




 

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承認欲求と対人恐怖①真の欲望
- 2007/03/13(Tue) -

斎藤学氏メッセージから


母親と泣いている赤ちゃん・・・
二人の間には言語は介在していない。
母親は赤ちゃんの泣き声を空腹と受けとめるかも知れない。
本当にそうなのかも知れないし、そうでないかも知れないが、
母親は子どもの欲望を読み取ろうとする。


そのこと自体が重要なのだ。


赤ちゃんの泣き声を
空腹の泣き声と聞き取る母親との関係の中で
言葉が生まれ発達する。
そして、その基底にあるのは
乳児の存在をまるごと認める母親の存在である。
こうした乳児に向かう母親の意識と、そこから始まる充足感こそ、
人間にとって最も基本的な欲望と言える。


フランスの精神分析医ジャック・ラカンは
こうした「母親から承認される欲望」のことを
「母親の欲望」と呼んだ。
それは「母が自分の存在を欲望しているという欲望」のことなのだ。


人間は他者との間で、
この基本的な「承認を求める作業」を繰り返していく。
それを「人生」という。
その出発点で、
この基本的な欲望がほぼ満たされている人は、
その後の人生が比較的楽にいく。


「私は人に認められ、受け入れられて当然」と思える人は、
特定の状況で特定の他人から拒否されても、無視されても、
それほどこたえない。
「あの人(他者)変だわ」くらいで済んでしまう。


しかし基本的な承認を受けていない人
自分の基本的な欲望を満たすためには、
まず母(他者)に、「おねだり」しなければならない。
 しかし厄介なことに、
「おねだり」して得られた充足は、真の欲望を満たさない。
自分の欲求や欲望を
(欲求=必要というのは生理的なものであり、欲望というのは
生理的な必要が満たされたという「記憶」によって生じるもので、
そこには他者との関係という問題が含まれる)
読み取ってもらえないという「寂しさ」がつきまとうために、
「おねだり」そのものが嗜癖化する。
その結果
「貰っても、貰っても」満足がないという「貪欲」に陥っていく・・・

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碧桃樹(へきとうじゅ)
- 2007/03/14(Wed) -

hekitoujyu.jpg


・・・・・・・・・・・・・・・碧桃樹(へきとうじゅ)

二十四詩品より (晩唐の詩人司空図しくうと(837~908)作)


采采流水、蓬蓬遠春。

采采さいさいたる流水、蓬蓬ほうほうたる遠春。

窈窕深谷、時見美人。

窈窕ようちょうたる深谷、時に美人をあらわす。

碧桃滿樹、風日水濱。

碧桃 樹に満つ、風日の水浜。

柳陰路曲、流鶯比隣。

柳陰にみちまがり、流鶯りゅうおう 比隣ひりんす。

乘之愈往、識之愈眞。

これに乗じていよいよ往けば、これをしるしていよいよ真なり。

如將不盡、與古爲新。

もしすすめて尽きざれば、いにしえとともに新をなさん。




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承認欲求と対人恐怖②
- 2007/03/15(Thu) -

「おねだり」


「おねだり」は恨みを増す。
恨みは他者との関係を破壊する感情であり
これが蓄積するとやがて爆発する。
この爆発は「自己愛性憤怒」と呼ばれ
承認を求める愛着対象に向けられて、相手は心身ともに傷つく。


思春期になって筋肉の力が増した子どもが親を罵り殴るとき、
あるいは男が愛しているはずの妻を侮辱し暴力で制圧しようとすろとき、
そこに生じているのはこの「自己愛性憤怒」なのだ。


対人恐怖と「承認」


「承認」に由来する恨みを抱えながら「おねだり」もできず、
憤怒の爆発も起こさないのが「対人恐怖者」である。
対人恐怖者は他者に承認されることを「渇望」しながら、
そこで生じる「他者からの侵入」、「見知られる不安」に脅えている。


自己と他者との「相互承認」は「相互侵入」という危険を犯して
ようやく成立するバランスというものがある。
そうした危険にもかかわらず
敢えてこの関係に踏み込むことを「親密性」と言う。


対人恐怖者は、この「危険」を犯したがらず、
それでいて自分が承認されることを望み、
それが得られないことで世の中に恨みを抱えている。


「おねだり」をするまでもなく「私を受け入れてほしい」という
人間としての最も基本的な欲望が満たされずにいるのだから、
その苦痛はひどい。


実は、彼らが自分を「対人恐怖者である、治して欲しい」
と訴えることそのものが、「おねだり」なのだ。
症状を訴えることによってしか、「おねだり」できないくらい
彼らは異常にプライドが高い。


しかし、この必死の懇願が受け入れられることはまずない。


なぜなら、この悩みは自らが他者(仲間)を承認し、
「自己の侵入を許す他者の苦痛に共感すること」によってしか
癒せないものだからだ。


医者に会い、症状を訴えるのは比較的やさしいが、
仲間と出会い、彼らを相手より先に受け入れるのは難しい。
ここに対人恐怖者の治療の難しさがある。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


私が抱えている現在の困難はまさしくこの一点にあると思う・・・


  「承認」に由来する恨みを抱えながら「おねだり」もできず、
  憤怒の爆発も起こさないのが「対人恐怖者」。


  対人恐怖者は他者に承認されることを「渇望」しながら、
  そこで生じる「他者からの侵入」、「見知られる不安」に脅えている。


  症状を訴えることによってしか「おねだり」できないくらい
  異常にプライドが高い。
  (・・・・敢えて自分の身体的感覚で表現するならば「異常に恐怖心が強い」)


  この悩みは自らが他者(仲間)を承認し、
  自己への侵入を許す他者の苦痛に共感することによってしか
  癒せない。


  仲間と出会い、彼らを相手より先に受け入れるのは難しい・・・


やはりここか・・・
そんな気分・・・


何度も挑戦しては、その都度敗退し、再び家に引きこもる・・・
そんなことを繰り返しているような気がする・・・


関係が持続し「親密性」が増してくると
不安と緊張が高まり、いたたまれなくなって逃げ出すか
「親密性」を求めすぎて、些細なことで深く傷つき
フラッシュバックを起こして持続できなくなるか・・・


そんなところをウロウロと
行ったり来たりしながら生きている・・・


そんな気がする・・・263263


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承認欲求と対人恐怖③嗜癖と対人恐怖
- 2007/03/16(Fri) -

精神科医・斎藤学氏メッセージから


        4.jpg


嗜癖と対人恐怖


ふつう精神科医たちは、
この二つを関連させて考えることがない。
多分その外見の相違のために。


嗜癖者は「だらしがない」、「自分に甘い」
「酔っていたりすれば社交的である」、「すぐに他人に頼る」
などの印象があるためだろう。
謙虚で奥ゆかしくて、几帳面そうな(そう見えるだけの話だが)
対人恐怖者の印象とは随分違う。


 しかし、仕事依存なども嗜癖であることを考えれば
この二つには密接な関連がある。
というより、
嗜癖者とは対人恐怖者のひとつのタイプである」と言い切って良い。
更に言えば、対人恐怖者は嗜癖という形でしか
「おねだり」ができない。
嗜癖者に見られる社交性なるものも、
実は「清水の舞台から飛び降りる」ような
冷や汗ものの無理であることを、
彼らと長く接してきた私は知っている。


もともと親密な関係を作るのが上手い社交的な人なら
なぜ酔っぱらって賑やかになったりする必要があるのだろうか?
なぜ、子どもっぽい甘えの仮装を使って
異性関係にのめりこんだりする必要があるのだろうか?


共依存者になると、この関連がよりいっそう明確になる。
共依存者の特徴のひとつは他人の評価を恐れること。
共依存者についてA.W.シェフが擧げている一つの特徴は
そっくりそのまま対人恐怖者のものである。


共依存者
他者の「承認」を求めながら
「おねだり」もできないままにそれを断念している。
人としての承認を相手に求める代わりに、
相手の欲望にひたすら奉仕し、
そうすることで、
他者にっとっての奴隷(あるいはロボットというモノ)」の役割
とり続けているのだ。


ンソニー・ギデンスは共依存を定義して
他者の欲望を借りて、自分の欲望としていること」と言った。


これこそ、
親密性の獲得に失敗した対人恐怖者が
他者に対して取るひとつのタイプに他ならない・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


対人恐怖・・・
嗜癖・・・
共依存・・・


自己分析を続けていくと
まるで当たり前のことであるかの如く
こうして全てが関連していくやりきれなさ・・・


その根源に
得られなかった『母からの承認』という
人として最も基本的な安心感や信頼感の欠如が
相変わらず漆黒の闇の中に
大きく口を開けて横たわっている悲しみ・・・


嗜癖(私の場合は性やカルト的な宗教へのアディクションだったが・・)や
共依存(アルコール依存・DV・浪費癖の夫との長い長い格闘の日々・・・)は
絶望的な「底を付く」体験を経て乗り越えることができたと思う。


今、私の家庭は
静かで穏やかな幸せに包まれ
1人1人の家族は
互いが自分自身
の人生を精一杯生きる
人間としての優しさや思いやりに溢れた
深い仲間意識で繋がっている。


でも・・・
どうしても人が怖くて
人を信じることが出来なくて
人と親密な関係を築くことが出来なくて
社会生活に困難を抱えたままで
辛い・・・のか?


こうして
これまでの自分の人生を振り返ると
悲しみや苦しみにまみれた記憶ばかりで
暗い絶望的な気分に陥ったりもするが
今与えられているかけがえのない家庭の幸せに
私は、心から、心から、感謝している・・・


だからこそ、これからも
さらに頭を上げて、前を向いて
自分が死ぬその日まで
人間としてのささやかな
努力を続けて生き抜いていきたいと
改めてそう思うのだ・・・



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承認欲求と対人恐怖④相互承認
- 2007/03/17(Sat) -

精神科医・斎藤学氏メッセージから


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親密性とは対等な二人の関係


私たちは母親(ないし母親代理)の関心と世話焼きの中で育つ。
母親との関係こそ、親密そのものと言いえるのだがそう簡単ではない。


私たちは母親にしがみつき、依存してきたが、
母親の方も私たちを拘束してきた。
ゆえにこの関係は平等ではない


対等であること
二人の人間が親密であることの必須条件である。


私たちにとっての「真の欲望」とは
自分以外のもう一人の人から「承認」してもらうことだ。
そこで必要なのは条件をつけない「マルごとの承認」である。


「そのままのあなた、そのあなたがいい」と言うのが承認だから、
自分が「完全無欠」で、「この世の中心」ということになる。


しかし他者からの承認ばかり求める我がままが続くと、
相手は奴隷のようになってしまう。


奴隷に承認されても仕方がないので
自分も相手を承認しなければならない。


そうなると、自分の都合ばかり言ってられない。
相手に承認されるように、自分の方も譲歩しなければならない。


そのためには
「他人が自分に侵入してくる不安」に耐えなければならないことになる。


こうして私たちは「私を承認してという自己主張」と、
自分を承認してくれる他者に価値を見いだす「他者承認」との
バランス
を取って毎日暮らしている。


親密性というのは、
こうして相互に承認しあう二人の人々の間に漂う感情なのだ。


このバランスが崩れた時のひとつのありかたは、
自分を卑しめ
承認してもらいたい人に奴隷のようにつかえて過ごすという屈従の人生
だ。


そんな人は多くないだろうと考えるのは間違っている。


夫につかえ、子どもに尽くし
夫の出世と子どもの成長を自分のことのように喜んでいた
一昔前の女性たちの人生はこれに近かったと思われる。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「他人が自分に侵入してくる不安」に耐えなければならないことになる。


「他人が自分に侵入してくる不安」・・・


すでにそれは私にとって
「不安」を越えた生存そのものを脅かす「恐怖」でしかない・・・


あの家で味わってきた胸を切り裂かれるような疎外感・・・


否定され、嘲笑われ、髪の毛1本まで貶められて
私は毎日血を流し
その滴り落ちる血を幼い両手一杯に受け止めて
かろうじて命をつないで生きてきたのだから。


残酷で、陰湿で、執拗で、そして更に巧妙で容赦ない苛め・・・


母は、自分の人生のあまりの不遇であることへの恨みを
あの家で最も弱者であった私を苛めることで
晴らそうとしていたのだろうかと
ふと最近そう思う時がある・・・


憐れな母・・・


それにしても・・・これは私にとって大変な難問だ。


しかし、今、私たち家族は苦難に満ちた過去を乗り越え
新たな仲間としての関係性を結び直すことに成功したのだから
人との関わりへの希望を捨てずささやかな努力でも続けていきたい・・・


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承認欲求と対人恐怖⑤親子の親密性
- 2007/03/18(Sun) -

精神科医・斎藤学氏メッセージから


       4.jpg


親子の親密性


自分だけが優れていて、強くて、
周囲のすべては自分に奉仕するモノに過ぎないということになると、
これは寂しい世界だ。


寂しいから大急ぎで、承認してくれる「他人」を探そうとする。
そして、それらしい人々に出会うたびに、
自分の力を確認しようとして、相手を征服しようと攻撃する。


この攻撃は、自分より強いもの優れたものに出会って、
自分が奴隷になるまで続くパワーゲームだ。


子どもが暴力などで親を支配してしまった場合、
子どもはこの種の寂しい世界の中であがき続けることになる。


だから親は
子どもの自己主張に「適度な規制を加える力」と「気力」を持ち
子どもが「承認してもらいたい人」として留まる覚悟が要る。


子どもを承認しつつ
子どもから承認を求められる者であり続けること
これが親の仕事である。


これが難しいから
成人になった子どもは親から離れようとするのだ。


大人になってからもベタベタとまつわりつくような「友だち親子」や
一卵性母娘」ならたくさんいる。


この場合
相互に情緒的に分離していない


子どもの方が大人になっていなくて親子の融合が切れていないか
あるいは親自身がはじめから大人になっていないので
チャム(なかよし)グループを続けているだけのことである。


こうした二人は
親の方も、子の方も、家族以外の人間関係が貧弱である。


親密な関係は
あくまでも対等な個人の差異の感覚の上に成り立つものであり
相手は自分とは違うという感覚が育てば育つほど
親密な関係の必要性も増し
親密性の感覚に敏感になっていくのだ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


   カリル・ギブラーンの詩    (レバノン人の詩人-西尾和美訳)


あなたの子どもはあなたの子どもではありません


子どもは命の表現そのものの息子であり、娘なのです


あなたを通してこの世に出てきますが
あなたがつくりあげたものではありません


あなたと一緒にいますが、あなたのものではありません


愛情を与えることはできますが
あなたの思いどおりに考えを植え付けることはできません


子どもは子ども自身の考えをもっているのですから


子どもの体を家の中に置いておくことはできますが
子どもの魂をとどめておくことはできません


子どもの魂は明日という家に住んでいるのですから


そして、たとえ夢の中でも
あなたは明日という家を訪ねることはできないのです


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承認欲求と対人恐怖⑥冷蔵庫はしゃべらない
- 2007/03/19(Mon) -

精神科医・斎藤学氏メッセージから


対人恐怖とは親密な関係を作る能力の欠如のこと


他人の奴隷になりたくない。
かといって他人を支配しつくす力もない。
そこに生じるのが対人恐怖症の世界だ。


孤独で、寂しい。
本当は他者の承認が欲しくてならないのだが
それを求めるには
自分の境界に他人が侵入してくるのを許さなければならない。


その安と恐怖に耐えられず
世界の中に孤立する、絶対者としての自己を保ちたいのだ。


親への過度な依存から脱し、親との相互作用を経験しながら
独立した個人として育って行く過程で親密性の感覚は磨かれる。


対人恐怖症者は、この過程に恵まれなかった人だが
だからといって一生を閉じこもって過ごす必要はない。


必要なのは、知識とトレーニング


まず、相互に承認しあうバランスというものがあり得ることを知り
体験する必要がある。


親からの情緒的独立の過程で磨く機会を逸した親密性の感覚を
成人どうしの「安全な場所」で育て続けて行けばいいのだ。


どこにそのような「場」があるか?


わたし自身は「問題縁」で結ばれた「自助グループ」が
その一つだと信じている。
どこにそれがあるかを知ることも知識の一つである。


寂しさから嗜癖が生じる。
その寂しさとはこの種の対人恐怖症的な寂しさだ。


嗜癖者が食物やアルコールに手を出すのは、
これらのモノとの付き合いであれば
自分が承認される、されないという恐怖から逃れられるからだ。


冷蔵庫はしゃべらない」し「酒瓶は要求しない」からである。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


相互に承認しあうバランスというものがあり得ることを知り体験する


このことは、「家族の崩壊と再生」という過程を通じて
身をもって学ぶことができたと思う。


以前のような状態のままだったら
一体、娘はどうなっていたことだろうと、
心底、ゾッとするが・・・


しかし、だからこそ
娘は大変な問題を抱えた両親のもとで
成長してきたわけだから
今後、どのような「隠された真実の欲望」が
娘の内から立ち顕われてくるか・・・
しっかり覚悟して見守リ
すべてを受け止めていなければならないと思っている。


そのためにも
自分自身がさらなる「人間的成長」を目指して
たとえささやかな努力でも続けていきたいと思うのだ。


成人どうしの「安全な場所」で育て続けて行く


自助グループへの参加は1年程前から考え続けていて
通える距離にある「グループ」も見つけてはいた。


しかし、どうしても踏ん切りがつかなかった・・・


その根底には
「自分はもう大丈夫なのだ」と
そう思い込みたい傲慢さがあったように思う・・・


今思えば、
まるでその代わりであるかの様にいろんなグループに参加し
他者との関係のあり方を
自分なりにトレーニンゲしようとしていたようだ。


で、
全ての「場」で
「怒り」にかられたり、「寂しさ」に耐え切れなくなったり
母との関係を再現するような「場」では
とうとう「フラッシュバック」まで起こしてしまったり、と
最悪の結果を迎えることになってしまったのだが・・・


もう一度
「自助グループ」への参加を
真剣に考えてみようと思う。


そして、もし、参加することができたら・・・
ここにはっきりと、そのことを書き残すことにしようと思う・・・263263263


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承認欲求と対人恐怖⑦愛の感情
- 2007/03/20(Tue) -

精神科医・斎藤学氏メッセージから


親密性とは「拘束されない愛」のこと


親密性とは愛の感情である。
しかし、愛そのものが親密性というわけではない。


愛は時に相手に侵入し、相手を支配する形を取るが、
こうした愛は親密性とは無縁だ。


愛に飢え、他人の承認を求めればこそ
その他人を愛し、その人の生き生きとした存在を承認する。


そのためには、自分の境界に侵入されることも辞さないが、
他人の奴隷として屈服するわけではない。


そういうギリギリのバランスのところで成立するのが親密性だ。


セックスする二人は、
陶酔の中でそれぞれの情緒的境界を破り、
肉体において境界侵犯をゆるし合う。


独立した個人にとっては
危険な状態に入るというところに意味があり、
だからこそ
人間関係の中でも特異で重要なものとされているのだ。


したがって
これが相互承認という前提なしに行われると
それは加害と被害の関係になり、
被害者は肉体だけではなく、
心理的にも傷を受ける。


そしてトラウマ(心の傷)は、
被害者のその後の人生に深刻な影響を及ぼすことになる。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


性の問題について
私は語るべき言葉をもたない・・・


それは私にとって
あまりにも陰惨な体験の連続でしかなかった・・・


ギリギリのバランスのところで成立するのが親密性
であるというのならば
私にとってセックスは
そのバランスが破壊されたところでのみ可能となる
支配・被支配の過酷な行為でしかなかった・・・


脳の恐怖を感じる部分と
性的なものをつかさどる部分が接近しているために、
異常な恐怖感を感じると、脳の性的な部分が刺激される。


それが私にとってのセックスの
唯一の意味であったのだろう・・・

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自助グループと霊的成長①自己愛者の時代
- 2007/03/21(Wed) -

精神科医・斎藤学氏メッセージから


自助グループと霊的成長


近代の市民たちは老若男女を問わず自らの価値に懐疑的になっていて、
他者の承認や拍手ばかり求めている。


拍手をもらうためなら、
かなり危険で無理なことまでやってのける気になっている人が
ありふれているという点をさして、
現代は「ナルシシスト(自己愛者)の時代」とも呼ばれる。


矛盾することだが、自己愛者は自己を愛していない。
他者の評価ばかり気にしているから、
自らの中に自己を承認し、愛する部分が育たない。


それどころか、思いどおりに動かない自己に対して、
「意志の力」という鞭を当て続け、
その痛みが「耐え難い寂しさ」として感じられる。


この痛切な感情は、
感情鈍麻という心的防衛を経て、退屈感へと移行する。


寂しくて退屈な人は、
愛されたい対象の安全な代替物として食物やアルコールなどの嗜癖対象を選ぶ。


真に愛されたい人からは拒絶されるかもしれないが、
嗜癖対象なら安全だ。


「冷蔵庫はしゃベらない」「酒瓶はあざけらない」。


要するに「意志の力」を信じ過ぎて、
自己を思うままにしようと闘うと嗜癖する。


その闘争の負けを認めて、限界ある自己を受け入れることが、
嗜癖から離れるコツである。


それを、断酒という素朴そのものの行為を通して示したのが、
アルコホリックス・アノニマス(AA)のメンバーたちであった。

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外傷としての自己愛人格障害ーコフートから
- 2007/03/22(Thu) -

「外傷性精神障害」岡野憲一郎著より


コフートは、生育環境における自己対象との関わりが
自己の形成に及ばす影響について論じたが
その視点も「外傷」という視点から捉えなおすことができる。


コフートによれば自己対象の機能である共感の不全empathy failureは
自己の統合性self-cohesivenessを脅かし
深刻な名伏しがたい恐れ」を導く。


たとえば患者の示す抵抗へ解釈が向けられた際に示す患者の怒りに関して
それを「幼児期に生じた特定の生成的に重要な外傷的状況が
分析状況で繰返されたこと
」によるものとしている。


また「母親の共感の外傷的な不在
情緒的に役立てない自己対象による外傷」等と表現されている。


その意味で、コフートのいう自己愛人格障害そのものを
外傷性の障害と呼びかえることすら可能と感じられる。


コフートの外傷に関連した理論は
自己対象からのミラーリングや共感の不足や不在による自己の脆弱さ
について論じられているといえる。


共感不全の持つ外傷的な意義については
それ自身が外傷として働く以外に
ある種のストレスが体験された場合
それが自己対象による共感により癒されることがないために
ストレスを最終的に外傷として成立させてしまうという可能性がある。


この場合の共感不全は
外傷が体験されることを促進するという意味を持つ。


この視点については
コフート派のストロロウstolorow,Rが次のように述べている。


「子ども時代に起きた障害となる体験(たとえば喪失体験)は
もし反応してくれる環境のもとで起きたなら
外傷的となったり病理的となったりしないだろう」


「子どもの痛みを伴った情緒的な反応に対して
波長を合わせることattunementや
応答することが充分でなかった場合こそ、それらが耐え難くなり
外傷的な状況や精神病理を生むのである」

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自助グループと霊的成長②回復のプログラム
- 2007/03/23(Fri) -

精神科医・斎藤学氏メッセージから


回復のプログラム


12ステップと呼ばれるA.A.の回復プログラムでは
最初の3ステップで
酒瓶(に託された「悪い自己」)との闘いに負けたことを認め(第1ステップ)、
個人の(意志の)力を超えた力(ハイヤー・パワー)の存在を信じ(第2ステップ)、
その配慮に身を委ねる決心をする(第3ステップ)。


要するに
自己との闘いの悪循環から降りることと
自己の力の有限性についての示唆
無力であっても何とかなるという励ましである。


ハイヤー・パワーという言葉は
「あるがまま」のあなたがあなたを救うということである。


この素朴な呼びかけをする人(先を行く仲間)と
呼びかけられてやって来た人(新参者)との間に
上と下、強者と劣者の関係ではない関係が生まれるとき
新参者は今までとは違った人間関係の中に
抱擁され、愛され、楽になる感覚を持つ。


先達と新参者との間には
当然上下があるだろうというのは誤解である。


A.A.のような自助グループでは
先に来ていた者は、後から来る者によって助けられる。


先達は自らの「回復の物語」を聞き
共感するものたちを必要としているからである。

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自助グループと霊的成長③12伝説の規範
- 2007/03/24(Sat) -
 A.A.のグループはメンバーたちが
12トラディション(伝統)と呼ぶ規範を備えていて
12ステップと12伝統を併せて、12&12ともいう。

12伝統ではA.A.は組織であってはならないとされている。
リーダーや治療者が居てもいけないし、会費も取ってはならない。
寄付を受けてもいけないし
まして金儲けに利用してはならないと定めている。


そして何よりも肝要なのはA.A.では
個人の名を出すことが禁じられている(アノニミティ<匿名>のルール
のである。


A.A.メンバーの一人が挙げた功績は
すべてA.A.グループに帰せられる。


A.A.メンバーたち(つまり自己愛者たち)は
個人の名誉と拍手を求めて正気を失ったのだから
個人の名の屹立は危険なのである。


これら12伝統の規範
有能な個人のリーダーシップの下に
資金を集めて有効に運用し金儲けをはかるという
近代市民社会の論理の「鏡像」であり「陰画」である。


資本主義社会と呼ばれるこの社会の論理が、
最も早く、徹底した形で世に浸透したアメリカだからこそ、
その「毒消し」としてのA.A.も必要となったのであろう。


A.A.は今や世界的に広がっているが
それは世界中がアメリカ的な社会になってしまったからである。


今の世を覆う論理の毒消しであるとすれば、
A.A.は20世紀のアメリカが後世に伝える遺産のうちの最大のものである。


A.A.は宗教ではないが
かつて宗教が担っていた役割の一端を担いでいる。


実際、アメリカのA.A.は
教会の地下室で開かれることが多い。


全人的な自己、魂の部分を含む自己というものの認識は、
役割人格の中に閉じ込められがちな近代市民たちに
不足しがちな「心のビタミン」なのである。


精神科医・斎藤学氏メッセージから

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自助グループと霊的成長④自助グループとカルト
- 2007/03/25(Sun) -

精神科医・斎藤学氏メッセージから


自助グループとカルト


自己愛的な現代人がカルトを求めるのは
そこでは「凡俗の人を超えた常ならぬ力」が与えられると思うからである。


そこでは入信したての下っ端に常人の勧誘を行わせる。


常人を説得することに成功した下っ端は
超人のはしくれとなることによって即席の「癒し」を得るのだが、
自分をカルトに導いた人物との上下の関係はそのまま維持される。


こうしてカルトは細分化された階層社会となる。


カルト内部の人間関係は決して水平(平等)になることなく
導くものと従うものとの連鎖となり
その連鎖の頂点には「神」がいる。


「神を求める人」たちにとって、これは居心地のいい場所である。


彼らには他者との間に対等な親密性を作る能力が欠けているから、
通常の社会の中では常に脱落の恐怖に悩んでいる。


他人はいつも自分より上位の神さまか自分より下位の奴隷であるから
そのようなものとして作られたカルト社会の中で彼らは安定する。


他人の設定したドグマ(教義)にひれ伏してその奴隷になり
ドグマに染まらない世間の人には優越感を感じるわけである。

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自助グループと霊的成長⑤カルトとの類似
- 2007/03/26(Mon) -

カルトとSHGの類似という問題について
斎藤学氏は
AAは当時流行していた新興宗教グループの中で誕生したことを指摘している。


(以下抜粋)


マインド・コントロール「我」の粉砕、剥奪である。
カルト集団の構成員が新たなメンバーの勧誘に成功することは
他者の「我」を奪うことに成功したことを意味し
これが彼らの万能感を賦活する。
これがこの種の組織に入って献身する者への報酬なのである。


AAの12ステップ
我々はアルコールに対して無力である(第1)、
ハイヤーパワーを信じる(第2)、
それに身をゆだねる(第3)、


これらは個人の力の無力の自覚であり、「我」の奪取である。


しかし、私はAAがカルトであるとは思わない。
リーダーを持たないこと、
グループの功績を個人のものとしないこと、
個人の名の非顕在化(アノミティの厳守)、


これらの12伝統がAAを救った。


12伝統のない他のグループがカルト化した例がその証左である。


薬物依存者を主な対象にしたシナノン(Synanon)グループでは、
神格化した個人が族生し、
数々の銅像や肖像画が崇められ、
一部は明瞭にカルト化し、一時は犯罪の温床とさえみられた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


やっと、ここまで辿り着いたか・・・・
それが今の私の正直な気持ちだ。


某宗教団体に長い間身を置き
徐々に疑問を感じて離れることができるようになってから
まだ7年も経ってはいない。


それはカウンセリングの勉強を始め
自らもカウンセリングを受け続けた7年の歳月と
見事に符合してくる。


特に宗教の話をした訳ではなかった。
苦境の中にいた私は
「自分のこの愚かな人生は一体なんだったのか」という
身を引き裂かれる様な悲しみの海に深く沈んでいたから。


自らが何者であるのか気づいていく過程で
それは静かに始まっていたのだ。


宗教への疑問・・・という
それまで考えもしなかった「絶対なるもの」への疑いが。

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自助グループと霊的成長⑥自己の無力化
- 2007/03/27(Tue) -

12伝統はAAを救った。


しかし、
他者に無力を自覚させることを自己の力と認識し
その達成感を得ることを目的とした、
12ステップを誤用しているメンバーもいる。


こうした人は尊大であり、グループを支配しようとし、
いずれ破綻する。


このような誇大自己を維持するために
SHGが利用されることは警戒されるべきである。


また、外部の援助者はSHGの自立を確認し
次第直ちに離れて運営に一切関与しないようにしなければならない。


自己を無力なものと認め、
そして自己を特定の集団にゆだねる。


この姿勢はSHGとカルトに共通するものである。


カルトは、自我を捨て去ることで、
個人が抱えている苦悩がすべて払拭されるかのように思わせ、
人をにする。


メンバー達は、何の苦しみもない世界を約束されるが、
その代償として、
本人は気がつかないうちにカルトの奴隷として利用されることになる・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


科目等履修生として
今春から大学院で学ぶことになったため
部屋の本棚を整理する。


100冊はゆうに越えるであろう
かつて心酔した指導者の本やビデオの数々・・・


それでもまだ捨て去ることもできずにケースにしまい
ベットの下奥深く眠りに付かせる・・・


おやすみなさい・・・安らかに
二度と目覚めることのない永久の眠りに
さあ、ゆっくりとおつきなさい・・・


何時の日か
本当の別れの日が
静かに訪れるその日まで・・・

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自助グループと霊的成長⑦誇大自己
- 2007/03/28(Wed) -

メンバーは利用されていると同時に、
利用している立場でもあると斎藤氏は指摘する。


他人の自我を奪うことに成功し、
そのことで快感を得ている
のだと。


そしてこの快感はSHGでも得ることができる。
おそらくこの快感もまた依存性の強いもののように思われる。
依存症を直すためにSHG参加しても、
今度はSHGに依存していることになるのでは、
あるいは、傷の舐め合いではないか、といったSHGへの批判は、
この快感への不信感から生じるのではないだろうか。


自己を無力なものとすることによる快感と、
他人の自己を奪い万能感を感じる快感
この両者は決して矛盾しない。


万能感、すなわち
自分が優れていると判断するには基準が必要となる。


カルトのメンバーの場合、
カルトの教えがその基準となる。


自分はその教義が示すところの最終的な到達点には
遠く及ばない無力な存在であることを認め、
しかし世界には自分よりさらにそこから遠いところにいて、
上をめざそうという意志さえない人々が大勢おり、
それにくらべれば自分ははるかにましであり、
勧誘活動や募金活動
(難民救済のためだとだまされて募金したとしても、
募金した以上少しは救われたことになる、とメンバー達は考える)
によって彼らを少しでも高い段階
(しかし自分よりは下に)導くことによって、
自分の誇大自己が満たされるのである。


多くのカルトの内部が、
ヒエラルキー構造になっていることもその表れであろう。


カルトにおける「到達点」はまやかしであり、
そこに至ることが許されるのは
カルトのリーダーただ一人である。


しかしメンバー達はそのことは知らぬまま、
いつか到達できると信じて、
目の前ににんじんをぶらさげられた馬のごとく、
決して至ることはないその到達点にむかって
際限なく努力する
(=カルトとそのリーダーに奉仕する
)ことになるのである。


したがって、
到達点」をことさらに示すこと、
そしてその「到達点」が抽象的・観念的で、
達成したかどうかが分かりづらいことは、
SHGのカルト化を促す恐れがある。


その点、12ステップ系のSHGが、
例えばAAでは、
「飲酒をしなくなる」という
非常に分かりやすい目標があり、
一方で、その症状は完治するものではなく、
一生背負っていかなければならないものであるという
前提を掲げるのは、
完治という到達点を示す危険性を察知した
先見の明であるといえるのではないだろうか。


AAの理念には、斎藤学氏が指摘しているように、
非常に示唆に富む内容が含まれている。

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自助グループと霊的成長⑧自己確認とその肯定
- 2007/03/29(Thu) -

(以下、抜粋続く・・・)


自己変革か自己確認か


カルトにおいては、
メンバー達は自己変革する、
新しい自分になることができる(悟りをひらく、など)
といった希望をもって活動に従事する。


SHGとカルトの大きな相違点がそこにあるのではないかと思われる。


SHGにおいては、
新たな自己を獲得することによって
問題を解決するという考え方はしない。


そこで行われているのは、
現在の自分の姿を確認し、
あるいはそれができるような環境、
きっかけを与えることである。


例えばAAでは、
ハイヤーパワーに身をゆだね、
自己の無力さと、アルコールに敗北した自分を認め、
あるがままの自分の姿を見つめられるようにする。


強姦の被害者に対しては、
「強姦神話」にみられるような被害者にも落ち度がある
という認識から生じる苦悩を取り除くために、
あなたは被害者であり、悪いことはなにもしていないのだと
言い聞かせることが行われ、
それによって被害者は、
自分が悪いのでは、という自分自身に対する誤解から解放され、
自己を確認することができるようになる。
また、「忘れようとする」という
不可能なことをしようとすることをやめ、
その事実を事実として認めながら
生きる道を模索しようとするのである。


そこで行われるミーティングや、
文章による自己の体験や心境を語ることもまた同じ効果を持つ。


他人に向かって自分の状況を言葉にして話す過程で、
問題が整理され、自分自身に対する客観視が行われる。


人に話すという形態をとってはいるが、
実際には自分自身に語りかけ、
己の状況を説明し、理解させている
のである。


そして、確認した自己を否定したり、嫌悪したりせずに、
それを受け入れ、むしろ肯定しようとすることが
カルトとの違いであろう。


問題を解決しようとするのではなく、
問題を問題として抱え続け、
しかしそれを否定することなく
自分自身の一部であることを認めて、
それとともに生きる。


そしてやがてそれは
問題としてすら認識されなくなるのである。


カルトのメンバーのように、
新たな自己を求めて
あくせくともがき苦しむこと自体をやめる
ことが
問題の解決へとつながるのである。


自己変革を求めることをやめることのできた状態をもって、
自己変革した新しい自分を獲得したのだ、
とすることができるように思われるかもしれないが、
それは結果論にすぎない。


自己を否定的にとらえ、
変革を強く望んでいる限り、
自己確認とその肯定という作業は行われることはないのだ。

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自助グループと霊的成長⑨神を求める人たち
- 2007/03/30(Fri) -

精神科医・斎藤学氏メッセージより


家族には「機能している家族」と「機能不全の家族」とがある。


後者では,やたらに秘密が多い。ルールが多い。
家族成員相互が話しあうことを嫌う。
外部の者を容易に受け入れない
独裁者がいて家族成員がそれに従う。
そして変化を嫌う。


このような機能不全家族の特徴は、
すべてのカルト集団の特徴に酷似している。


機能不全家族の中で育ったような人々が,
ようやくその拘束を逃れて「出家」してみても,
そこに同じような集団を作ってしまうということである。


支配されることと依存することを何よりも大切にする。


神を求める人たち」が
あるいは街中を彷徨い、
あるいは家にこもり、
対人関係に悩みながら生きているわけだから、
誇大的な能弁を操る詐欺師たちは次から次へと「神」に化けるであろう。


神を求める人たち」は
その機会さえ与えられれば、
自らを機能不全家族の出身者であるAC(アダルト・チルドレン)
と認識するようになる。


実際、ACの回復を謳うアノニマス・グループには、
この種の若者たちが蝟集している。
これらのグループは常にカルトへの腐敗の危険にさらされている。


A.A.の創始者の一人ビルは、
このグループの源泉をカール・ユングの診察室とみなしていた。


ユングは、ビルを断酒に導いたローランドなる人物に
「あなたの問題は医療では解決しない。宗教をおやりなさい」
と言ったという。


しかも
並のキリスト教ではない、魂の琴線に触れるような宗教体験が必要だ
と言い、
ローランドはアメリカへ帰って、
当時流行していた福音主義派の新興宗教、
オックスフォード・グループ(現在のMRA:道徳再武装)に入った。


A.A.はこの新興宗教グループの中で誕生したのである。

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