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V.E..フランクルの言葉⑨
- 2007/07/01(Sun) -

           絶望との闘い


具体的な運命が人間にある苦悩を課する限り、


人間はこの苦悩の中にも一つの課題、


しかもやはり


一回的な運命を見なければならないのである。


人間は苦悩に対して、


彼がこの苦悩に満ちた運命と共に


この世界でただ一人一回だけ立っている


という意識にまで達せねばならないのである。


何人も


彼から苦悩を取り去ることはできないのである。


何人も


彼の代りに苦悩を苦しみ抜くことはできないのである。


まさにその運命に当った彼自身が


この苦悩を担うということの中に


独自な業績に対する


ただ一度の可能性が存在するのである。
 

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日々のこと
- 2007/07/02(Mon) -

2日間の休み。


いつも通りの時間に起きて、朝食を準備し、お弁当を3つ。
今日は私の分はいらない。
何を食べるか、一人の昼食は楽しみでもある。


洗濯や片付けを終えてから整形外科へ。
腫れが酷い。
先生、渋い顔。
私はなぜか申し訳ない気分になって
悪いことをした子どものようにうな垂れる。


帰り道、傘を差して少し散歩。
家の前にある小さな分室の図書館へ行く。


なにといって深い考えもなく5冊、小説本を借りる。
今のささやかな日々の目標。「一日一冊の読書」


新聞の折込に入っていた求人のチラシに目を通す。
もうすぐやってくるかもしれない退職の日が頭にちらつく。
そんなに都合よくいい仕事があるはずもないのに。


夕食に懲りすぎて、やたら時間がかかった割りにはあまり美味しくない・・・
教訓。「拘りすぎは失敗の元」


静かな一日だった。



 

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心理学化する社会
- 2007/07/03(Tue) -

『自己コントロールの檻』より  森真一・講談社
                
現代社会は
高度な自己コントロールと感情マネジメントを要請する社会である。


なぜなら、
現代社会の基底をなす人格崇拝
および合理化の両規範とも高度化・厳格化してきており、
そのような社会的状況で生活する人々は
高度に自己の感情をマネージしていかなければならないからである。


心理学的自助マニュアルをはじめとする心理学的知識は、
この状況に適応しようとする多くの人々のニーズに応えるとともに、
当該状況の維持・再生産に寄与していると考えられる。


カウンセリングへの関心の高まりや
「キレる人が増加している」という言説の流行から、
現代社会は
対人関係において高度の自己観察・自己コントロールを要請する社会であり、
対人関係における高度な道徳を要請する社会である。


このような高度な自己コントロールが必要とされるのは、
「人格崇拝」と「合理化」という道徳が
高度にあるいは厳格に規範化されているからである。


「合理化」および「マクドナルド化」とは、
人々がある目的を達成しようとするとき、
関連することがらを数量化し、
規則や機械によって関係者の行動をコントロールすることで、
より効率的に、より予測可能な形で当の目的を達成しようとする傾向を意味する。


世間に流布している自助マニュアルは、
心理テストの質問項目を用いて
不可視の心や性格の質を得点化・数量化する。


また、感情を適切にコントロールすることを説いて、
自己コントロールを強調する。


よって、こうした自助マニュアルなどの心理学的知識は
「合理化」および「マクドナルド化」に寄与する。


したがって、心理主義化した人々は
心理学的知識や技法を身につけて、
生活のあらゆる場面でより合理的に振る舞い、
スムーズに予想したとおりにものごとを進行させ
「マクドナルド化」に寄与し、
反対に「マクドナルド化」した人々は
「合理化」を維持・発展させようして、
さらに社会の心理主義化を維持・促進するのである。

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人格崇拝という共同信仰
- 2007/07/04(Wed) -

E.ゴフマンは、現代における自己は
「適切な儀礼的配慮をもって扱わねばならず、
また、他人に対し適切な姿で示さねばならない神聖な存在である」
としている。


ゴフマンは、現代社会において個人の一人一人が、
「儀礼的態度」をもってお互いに「敬い合う」という社会的場面において、
「個人主義という宗教における人格崇拝」の現代社会での実践を見ている。


「人格崇拝」という共同信仰によって保たれている
現代社会における社会秩序
は、
個人が互いに払い合う「儀礼的態度」によって支えられている
という社会の仕組みであった。


ゴフマンは儀礼の基本的成分を大きく二つに分類している。


それは「敬意 deference」と「品行 demeanor」である。
「敬意」は相手の聖性を侵さないように一定の距離を保って接するという
「回避 avoidance」儀礼と、
積極的に相手への関心を示すことによって相手に対する承認の保証をするという
「呈示presentational」儀礼という対照的な行為によって実現される。


また「品行」は自分が他者によって
「敬意」を払われるに値する人間であるということを示す行為である。


つまり「敬意」と「品行」の関係の裏には、
「一般に、人は自分で自分に敬意を与えることは許されず、
他人にそれを求めなければならない」
という前提のうえに、
他者に敬意を与えることを迂回した
自己に対する敬意の獲得という構図が存在する。


これはお互いの人格についての聖性を認め、
互いにそれを承認し合うことによって、
社会秩序が保たれていくという意味において、
「承認の体系としての社会」の存在を証明するものである。
 
現代社会において、
他者によって承認してもらいたいという承認の欲求は、
そのまま「聖なる」人格を有する自分についての確認の欲求である。


人びとはお互いが相手の神聖を崇め合う司祭でありつづけることによってのみ、
秩序ある世界に安らぐことができている。
 
  敬意を他人から求めるために、
  人は、自分 に敬意を払ってくれる人々を捜し出す必要があることを知り、
  そして社会のほうは、そのおかげで、
  成員が相互作用と関係に入っていく一つの保証を得るのである。
  もし人が自分の手でみずから望む敬意を与えることができたとしたら、
  その社会は、 みずからの殿堂のなかで、
  それぞれに限りなく祈り続けているような、
  孤独な信仰的な人々のみが住んでいる無数の島々に分解してしまうだろう。

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存在の証し
- 2007/07/05(Thu) -

存在論的安定を得ることが困難になった人間は
価値論的な安定を求めざるをえなくなり
自分が「ここに存在する(being)」というだけではなく
何かをなしうる(doing)価値ある存在である」
という実感を得ることに存在の証しを求めてきた。


さらに、「人格崇拝」という仕組みによって、
互いが互いを崇め合う役割を担って社会につながれ、
それぞれの人間関係を保つという、
承認体系としての社会構造」が存在していた。


そのような社会では
「自己の価値論的安定としての存在証明」には、
必ず「承認するものとしての他者」の存在が不可欠となった。


デュルケームは
道徳意識の高い「聖人」ばかりで構成される「僧院」のような社会では、
反道徳的な行為は起こりえないといえばそうではなく、
むしろそのような社会においては、
わずかな意識からの逸脱でも社会はそれに対して極めて敏感になり、
厳しく糾弾されるようになる
』と言ったが
現代はまさにそのような社会になっている。


心理学主義的言説の横行や
「内面」への強い興味関心が、
高度な自己コントロールを強要し、
他者に対しても相手の「人格」を侵害しないように要求する。


最大の権威は「人格」であり、
それを侵害することは最大の不敬となる。


自らもそのような「人格崇拝」の対象としての自分を意識するようになり、
自分の「内面」への侵害は攻撃の対象となるのである。

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日々のこと
- 2007/07/06(Fri) -

今日は仕事をしながら
心此処に在らずの状態がずっと続き
何が原因か分からないまま
過去のことばかりを思い出して
憂鬱で重苦しい気分を引きずり家に帰ってきた。


「どこでどう、なにをなぜ、間違えてしまったのか・・・・」


また、そんな言葉が頭の中をグルグル回り
些細な過去の出来事まで
事細かに思い出しては検証しようとする。
グロテスクで、残酷で、
反吐が出そうになる出来事ほど
余計にそうしようとする。


そんなことをやり出したら
どんどん過去に遡っていって
「生まれてこなければよかった」って
出る結論はそう決まっているのに。


感情が際限なく昂ぶってくる時
感情が底なしに沈み込んでいく時
それを手放すまでが本当に苦しい。


えい!と思い切って手放してしまい
体を緩め、ときほぐす・・・・


すると感情がゆっくり空気に溶けて消えていく。
自分自身も一緒に消えてゆく。
頭の中が真っ白になる。
言葉が消え、私はただの生物になる・・・・


酷い自己防衛の方法を
覚えてしまったのかもしれないが
そうしなければ生活できない。


感情をせき止めて、体を解放し、葛藤を空中に溶かし込んでいく。


そんな風に生きていて良いも悪いもない。
それが今の自分。

ジッと目を閉じて
空中に溶けていく瞬間
すべての怖れを手放して静まりかえっていく瞬間
全身でそれを感じ取る。


それが今の自分。



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存在論的肯定
- 2007/07/07(Sat) -

前近代社会では、
人間は生活上の諸機能がそのなかで充足されるような、
よくまとまった小さな集団のなかで暮らしており、
その共同体内部での人間関係は
全人格的な融合状態にあり、相互扶助が成り立っていた。


その共同体に帰属しているということが、
共同体内部の固定した構造に組み込まれているということであり、
そのかぎりにおいて、
個人は「存在論的に肯定」されており、
共同体に属する諸財の提供や受領を受けることができた。


そこでは、
共同体からの離脱は存在の否定を意味するが
その「共同体」と「世界」は同等のものであるので、
近代以前の社会における人間は
彼らがこの世に生きているかぎり、
とりあえずは肯定されているという意味において、
存在論的に安定」していたのである。


そのような社会においては、
個人は帰属している共同体の一員として、
つねに「何者かである being」状態にあり、
個人という「個体性」を取り立てて問題にする必然性がなかった。
 
しかし、
生産技術や交通・通信手段の発展にともなう
社会生活の範囲の拡大や、
国家によるギルド・村落共同体・身分・宗教団体などの
中間集団からの特権剥奪などが徹底されていくにつれて、
それまで勢力を誇っていた共同体は次第に衰退
細分化した生活上の諸機能は
それぞれ別個の集団によって担われていくことになる。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ちょっと気分を変えてみたくなって
久しぶりに模様替えしてみました♪


夏らしくなったかしら?


水底から、やっと顔だけでも出したってとこかな(笑)



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価値論的安定
- 2007/07/08(Sun) -

それまで全人格として個人を包みこんでいた共同体が
解体していく近代社会では、
個人は最初から
個々の原子化した「個人」として存在するしかなくなっていく。


原子化した人間は、
それまで必然的に従ってきた
特定の共同体から解き放たれると同時に、
今度はみずからが
「選択する主体」となって、
自分の所属すべき集団を複数選びとり、
みずからを帰属させていくようになる。


共同体から切り離された諸個人は、
みずからがすべてのことがらの出発点となり、
同時にその存在の根拠をも
みずからの手にゆだねられることになったのである。
 
このような「近代的個人」の誕生にともなって、
近代以前の社会においては
共同体への帰属=存在という
存在論的条件に基づいて制御されていた諸財の提供・受領が、
近代社会においては
その個人に対価を支払う能力があるか否かという、
個人の能力によって決定されることになった。


人びとは近代においては、
「何者かである being」という存在論的な理由のみによって
みずからの存在の安定感を得ることはできず、
「…だから肯定する」というように、
つねに「何かをしうる者である doing」
がゆえにその存在を肯定されるような、
「価値論的な安定」が必要となったのである。

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日々のこと
- 2007/07/09(Mon) -

今日はお休み日。


京都まで行く。


で、疲れて、眠くて、もう寝ます・・・・


おやすみなさい~

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日々のこと
- 2007/07/10(Tue) -

今日も1日中京都に。


この2日間、知り合いの和紙工芸家の工房を見に行っていた。


家からは随分遠くて、電車を乗り継いで片道2時間はかかる。
駅からも徒歩約30分。


いろんな作品を見せてもらい、それらがどんな風に作られていくか。
興味津々、大変面白くて、楽しくて。


「家が近かったらバイトに来てもらえるのになあ~」
そう言われ、激しく動揺するも、あまりにも遠い・・・・遠すぎる・・・・


ああ~、自然に囲まれた場所で、美しい和紙に囲まれて
様々な作品を作る手伝いが出来たらどんなに良いだろう。


「私一人で引越しをして、夢の一人暮らしでもするか」
「オオ、単身赴任だ!」
などと、冗談とも本気ともつかない会話。


2日間、歩いて歩いて、膝がとても痛む・・・・
こうなることは分かっていたが、どうしても行きたかった・・・・
明日の仕事が、心底不安・・・


爆弾を抱えているような日々。


とりあえずは早く寝なくちゃ!


 

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夫について考える
- 2007/07/11(Wed) -

最近、本当の意味での安定感を
身体的にも感じ始めている様子で
居間で寛いで寝っころがっている姿を見ていると
これまでの夫の人生が
如何に強迫的なものであったのかが窺える。


「のんびりするねエ」
「ああ」
「こんなにのんびりするのって、生まれて初めてと違う?」
「えっ、ああ、そう言えばそうやなあ」
「良かったね、のんびり出来て」
「そうやなあ、のんびりするなあ」


私たち夫婦がこんな会話を交わすようになるとは、
かつては想像だにできないことだった。


夫の母親は、激しい恋愛の末、
周囲の反対を押し切って、駆け落ち同然で新潟を出奔し、
遠く北海道の地へと嫁いでいった。
しかし、北海道での極貧の生活に耐え切れず、
当時3歳の男の子を連れて離婚し
失意の中で新潟へと戻っている。


夫の父親も、当時としては珍しく恋愛結婚をしたらしいが
病弱だった妻は1年足らずで病死し、
こうして子どもを連れた母親と
妻に死なれた父親は
互いに生活上の必要に迫られて、再婚することとなったようだ。


心から愛した男との不如意に終わった結婚生活。
そして、恵まれた、たった一人の形見のような息子。


その息子を自分の命よりも大事と抱きしめて
戦争で体を壊してからその生涯を
ほとんど働く事なく過ごした再婚相手の夫を支えて
懸命に農家の嫁として働きとおした人生であった。


夫の家は、それほど大きな農家ではなかったが、
新潟の稲作農家としては
常時、数人の人を雇って生業を営んでいた
それなりの田畑を持つ、中堅どころの家系であったと思われる。


「この子を後継ぎにしたい」


母親は、連れ子の長男を不憫がり、
ひたすらそのことを切望し
それ故にまた、懸命に働いたようだった。


しかし、因習深い新潟では、
血縁を何よりも大切にする土地柄で
母親のこの願いを叶えるには、
再婚した父との間に
決して男の子が生まれてはならないことだった。


「もし、男の子が生まれたならば、
 その子が父親の血を受け継ぐ正当な跡取となり
 この不憫な愛しい長男は、追いやられてしまう・・・・」


再婚相手との初めての子どもを身ごもった母親の胸中は、
決して穏やかなものではなかったであろう。


そして、誕生したのが、夫だった。

母にとって、決して生まれて欲しくなかった男の子・・・・


それが、夫だったのだ。

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夫について考える②
- 2007/07/12(Thu) -

夫の幼少期がどのようなものであったのか、
長い結婚生活の中でも、
断片的にしか聞いていない途切れ途切れの話を、
ゆっくり紡いでいくしか知る術はない。


東京で知り合って間もない頃、
夫はよく田舎の話をしながら泣いていた。
今思えば、本当にあの頃は何かと言ってはよく泣く男だった。
「田舎に帰りたい」それが口癖でもあった。


雪に閉ざされた冬の囲炉裏端で、
父親が話してくれたという新潟の昔話。


「いっちゃぽん~」
「それが昔話が終わる時の決まり文句でなあ」
遠い目をして話してくれた。


幼い頃、3度も腕を骨折して
痛みの強いリハビリを泣いて嫌がる夫に
好きなおかずを弁当に入れ、
汽車に乗って病院へと通ってくれたのも父親だった。


「心底、優しい親父でなあ。
 『仏の久太郎』って、村ではそう呼ばれていた」


一緒にお風呂に入り、曲がりきらない夫の腕を
湯船で温めては、毎日マッサージをしてくれたと言う。


お酒が好きで、仕事も出来ない弱い体でも
酒が途切れたことは一日としてなかった。
「飲めなくなった時は死ぬ時」
いつもそう言っていたらしいが
その通りの、脳出血による突然死という
眠ったままの静かな最後であったようだ。


「親族会議が何度もあってな。
 誰を後継ぎにするか、揉めに揉めたらしい」


夫が中学に上がる頃には、決着が着き、
後継ぎは長男に決まった。


「本当の長男は俺だから。
 親父はさぞガッカリしたことだろう」


「本当の長男は俺だから」
強い口調でそう言う時、
夫の目には微かな怒りが宿っていたように思い出される。


母親の思い出話は聞いたことがなかった。
当時の私は、そのことに何の疑問も感じなかった。
最近になって、余程母親に疎まれていたのだろうと
夫の否認の強烈さに、その抱えきれない寂しさが思い遣られ、
私の胸も切なく痛む。


母親との思い出もなければ、憎しみさえもない・・・・
掻き消されたままの母への愛憎・・・・


夫の胸中深くに、決して消えることのない埋火となって
それらが激しく燃え続けていたことに
私が否応もなく気付かされたのは
子どもが生まれて急激に変貌してゆく夫の復讐が
母親となった私へと向けられるようになってからのことだった。

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日々のこと
- 2007/07/13(Fri) -

仕事帰り、閉館30分前のぎりぎりの時間だったが
なんとか図書館に間に合った。


今年の4月から、
なんと1度に12冊も借りれるようになっていたと知る。


貸し出し期間は2週間だから、
借りた本のすべては、とても読みきれるものではないと思うが
手当たり次第に借りていると、当たり外れがどうしても出てきてしまう。


私は 「これはちょっと、私には合わないな」と感じたら
躊躇いなく読むのを止めることにしているので
時として、全く読む本がなくなってしまうこともある。


さすがに 「我儘だなあ~」と健気に反省もしてみるが
ダメなものはやっぱりダメで、どうしても読む気になれない。


12冊借りられたら、この悩みは解消される様な気もする。


週平均3冊ぐらいの読書量の私には
12冊中半分が「当たり」なら、大成功だ。


それでも読みたい気持ちにさせてくれる本に出会えなかったとしたら、
やっぱり原因は自分のこの偏った性格にあるのだと
きっぱり諦めるしかないけれど。


とりあえず、今日は時間に追われていたので
いつもどおり5冊。


さてさて、今回は「当たり」は何冊あるかな?


ああ、欲しい本を、がんがん買える身分になりたい!!

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夫について考える③
- 2007/07/14(Sat) -

「家出」の真似・・・・
本人には、そんな自覚は全くなかったのだろうが、
何か問題に直面する度に、まずは、取あえず、「家出」をする。


最近でこそ、年に1回程度に減りはしたが、
(未だにやっているのだ・・・・今年は4月だったっけ)
かつては、3ヵ月に1度位のサイクルで、それは繰返されていた。


私が慌てふためき、嘆き悲しみ、
「帰って来てくれ」と泣いて何度も懇願するのを、
まるで愛情確認の
最も重要な儀式とでも思い込んでいるかのように
執拗に、強迫的に、繰返すのだ。


1週間、10日、一番長い時には半年以上も家に帰らず、
そのくせ毎日、電話だけは必ずかけて来る。
私の泣き声を聞くためだけに。


生活は困窮し、部屋代も光熱費も支払えなくなる。
私は早朝から深夜まで、食べることさえ忘れて働き、
生活費や夫が残していった借金返済に追われる。


こんな馬鹿げた生活に、更に拍車をかけたのが、
信仰していた宗教の教義であり、
たった1度かかっただけの、
同じ信仰を持った団体幹部でもあった精神科医の「治療」だった。


「宿命」
「すべては自分の過去世の罪」
「過去の誤った宗教の害毒」
「自分の一念が変れば必ず問題は解決する」
「それが出来ないのは、自分は悪くないと思っているから」
「信仰が足りない」
「心が汚れている」
「福運がない」等々・・・・


私の宗教依存はますます加速していった。
尋常ではない勢いで、早朝から深夜まで狂女の如く活動し、
呪われたかのように祈り続け、最後の頃には、
毎日6~7時間も命がけで祈っていたのだった。


そして、こうした私の狂気に共鳴するかの如く、
夫の言動も際限なくエスカレートしていった。
アルコール依存、私への暴力・暴言、浪費と借金・・・・
何もかもが、この世の地獄そのものの生活へと転がり落ちて行く。


「何故?何故こんなに耐えて努力して、
 自分の幸せなどいらないとまで覚悟して頑張っているのに、
 何故夫はどんどん悪くなって行くの?」


私の心身はすでに限界を遥かに超えていた。
暗黒の絶望は、私に、
死に至るまでの更に激しい活動を強いていった。


しかし、それでも
本当の意味での「底つき」に至るまでには、
まだ数年の年月が必要だったのだ。

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ムカデが・・・・
- 2007/07/15(Sun) -

今日は私の部屋に
体長10cmはあろうかと思われるムカデが現れ
外に出そうと追いかけているうちに見失い
さすがにムカデと一緒の部屋で寝るのはあまりに怖すぎて
ずっーーーとその行方を探していた。


ところが、どこをどう探してもどうしても見つからない・・・・


ベッドをあげて、裏の裏まで探索しても
机の裏も、本箱の裏も、絨毯の裏も、
布団もカーテンも掛けていた服も
どこをどう探してもどうしても見つからない・・・・泣


もーーーうダメだ、と諦めて、
今日から1階の居間で寝るしかないと
やっと諦めをつけた次の瞬間!


居たのです!机の横の壁際に!
ピタリとしがみついてるムカデが!!


じーーーっと息を殺して、
今度こそ絶対失敗は許されない覚悟で
そろーりそろーり近づいて
ハッシとそいつを捕らまえる!


こうして、無事、窓から外に逃がしてやって
もう、くたくたに疲れました・・・・


これでようやく、私もムカデ君も
どちらも今夜は、安眠できるなあ・・・・

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社会的なるものの内面化
- 2007/07/16(Mon) -

自らの存在意義を他者に与えてもらわなくては
この世に存在することもおぼつかないような
脆弱な存在としての人間は
個人の自由を実現するために「理性的な自己意識」をもつものとして
個々人の存在の奥深くに社会的なるものを内面化させていく。


個人による社会への「自発的な服従」という
新たな権力構造」を用意していくのだ。


近代に特有の新たな権力構造について M.フーコーは、
イギリスの功利主義哲学者の J.ベンサムによって
合理的で効率的な監獄として考案された
パノプティコン(一望監視施設)で採用されている監視の技術が、
まさに近代社会を存立せしめている権力構造の象徴であると指摘する。
 
  可視性の領域を押しつけられ、その事態を承知する者
   (つまり被拘留者)は、みずから権力による強制に責任を持ち、
  自発的にその強制を自分自身へ働かせる。
  しかもそこでは自分が同時に二役を演じる権力関係を自分に組込んで、
  自分がみずから の服従強制の本源になる。(Foucault)


共同体に属するかぎりにおいて
そこでの共通の信念や慣行への画一的な同調を強いたり、
また特定の権力を有する者への服従を強いることによって、
社会の秩序を維持しようとする古い社会統制の方法が
有効性を失ってきたような社会においては、
社会が個人を統制し全体の秩序を保つための手段として、
個人の内部に道徳的義務(良心と同義)を植えつけ、
その良心にしたがって「自主的に」社会の諸規範に同調するように促す、
という方法は有効なのである。


人びとは近代イデオロギーを担う啓蒙思想によって与えられた
個人の理性の価値を受け入れれば受け入れるほど、
みずからの理性に対する尊重から、
自己の行動を統制する内面的な義務を感じるようになる。


こうして「理性的な近代的個人」は、
社会の諸規範により深いレベルで同調していく。


この時点で、近代のイデオロギーは
それまで個人の外部にあった管理装置を、
個々人の内部に埋めこむことに成功している。


個々人の内部に入りこんだ管理装置は、
個人に気づかれることなく、
内部から個人の行動を統制していく。


近代社会は、
個人にそれぞれの自由を追求させながら、
みずからの秩序をも維持していく
ことを可能にしており、
フーコーがパノプティコンの監視システムを
その象徴的な例として指摘しようとしたのも、
こうした構造についてなのである。

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夫について考える④
- 2007/07/17(Tue) -

夫は、県立高校の受験に失敗し
間もなく、生まれ育った新潟を後にしている。


「高校に落ちた位でなんで家まで出たん?」
「とても、新潟にはおれないと思った」
「なんで?」
「親父が、子どものいない叔父さんが東京で靴工場をやっているから、
 そこの跡取になったらどうか、って話をつけてくれたから」


全く答えになっていない返事をして、
後は押し黙ったまま
徐々に苛立ってくるのがありありと分かった。


すぐに東京に出て、定時制に入学している。
慌しい旅立ちである。


東京では、言葉の訛りをからかわれて大いに荒れ、
「浅草の顔」と呼ばれるほど、
喧嘩に明け暮れた日々を送ったという。
顔や身体に、その頃の深い傷跡が幾つも残ったままだ。


「お母さん、何にも言わへんかったん?」
「せやなあ・・・・一度だけ、中学校の入学式の日に、
 新しい制服のズボン穿かせてくれたことがあってな。
 その時に、お袋、えらい優しいなあって思ったことがあったかな」
「そう・・・・」


嫌な気持ちがした。


夫が言っているその時期とは、
丁度長男が後継ぎに決まった、その直後のことではなかったのか。


口にこそ出さなかったが、
私は夫の母親のそうした行為に、
自分の母親にも共通している歪んだ自己愛の醜悪さを、
まざまざと見せつけられたような思いがして、
既に会うこともなく亡くなっていた夫の母親に対して、
その時、強い憎しみのようなものさえ感じたのだった。

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日々のことーブッダを学ぶ
- 2007/07/18(Wed) -

最近、毎日のように訪れているHP。
今の私の思いに最も近い感覚。
読む度に、深い安堵を覚える。


今日も1時間ばかり読んでいた。


その中の一節。


「月を差す指はどれか?」より
http://www.dia.janis.or.jp/%7Esoga/index.html



私達は、無常にして無我なる縁起の現象である。


しかし、そのことを知らず(無明)、
自分は一貫性のある主宰者(アートマン)であり
自分を思うままにコントロールしていると思い込み、
自分に執着し、
自分を守り、
自分に有利なものを奪い取り、
自分に不利益なものを攻撃し、
自ら苦しみ、
人を苦しめている(凡夫のあり方)。


執着している対象も、
憎んでいる対象も、
自分自身も、
本当は実体ではなく、
他から縁を受け、
他に縁を与え、
関係し合う無常にして無我なる現象である。


そのことを正しく観察し真に納得せよ。
そうすれば、慈悲が発動し、
苦は吹き消され、
涅槃に安らぐことができる。

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日々のこと
- 2007/07/19(Thu) -

体調を崩して、仕事から帰って、夕ご飯の仕度だけすると
倒れるように眠ってしまった。


嫌な夢をみた。


かつての宗教団体の人たちと声高に言い合いをしている。


何を言っても無駄だと分かっているのに。


その詐欺師のような饒舌さには
到底、太刀打ち出来ようはずもないと
骨身に染みて分かっていることなのに。


目が覚めると、家族が心配して声をかけてくれた。


私は、この当たり前の幸せが
如何に得がたいものであったかを、再び思わずにはいられなかった。

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「希望の構造」①
- 2007/07/20(Fri) -

西尾和美氏「慢性的なトラウマからの回復と癒し」から 


トラウマを受けて育った人というのは、
何らかの希望がないと生きていけなかったわけです。


「いつかお母さんは私を愛してくれる」
「いつかお父さんは殴るのをやめるだろう」
「いつか誰かが私を救ってくれるだろう」
「そのうち何とかなるのではないか」
「いつかこの家を飛び出して、素晴らしい人と出会って、結婚して、いい生活をするんだ」
というような、いろいろな夢があります。


それがなかったら生きていけなかったので
こういう希望を持ち続けて生きてきました。


そうして生きているうちに、その希望がだんだんふくらんで
その希望自体がなによりも大切になってしまうわけです。


虐待を受け続けることなど何でもなくなります。
希望さえ持っていれば生きられるということで
希望だけがふくらんで大きくなってしまって
虐待を受けているという事実はその人の中で小さくなっていきます。


希望を失ったら大変なので
それを持ち続けるためにはどんなことでもいといません。


たとえば虐待のある家庭で育った人が家を出たあと
虐待をする人と結婚してしまったりするのは
希望をなくしたくないからだといえます。


またそこで
「この人はいつか虐待をやめてくれるだろう」
「誰かが私を助けてくれるだろう」
「何とかなるだろう」
という希望を持ちながら生きていくわけです。


この希望は、最初のうちは
子どもが虐待のある家で生き延びていくための大切な手段でした。
自分の身を護るひとつの手段だったわけです。


ところが、この希望が独り歩きを始めて
それだけが何よりも大事になって現実が見えなくなってくる。


(続く・・・)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


私にとって、かつての信仰こそが唯一の希望であったのだ。
だからどんなことも耐え忍び、非情なまでの修行を自分に課していたのだ。


現実よりも希望が、信仰そのものが、命よりも大事になっていたのだ。

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「希望の構造」②
- 2007/07/21(Sat) -

西尾和美氏「慢性的なトラウマからの回復と癒し」から 


希望が一人歩きを始めて、それだけが何よりも大事になって
現実が見えなくなってくる。


大人になっても、引きこもりを続けながら
あるいは摂食障害をやりながら、何も力がないのに
「私はアメリカの大学に行くの」
「芸術大学に行って音楽家になるの」
「いつかすばらしい人に会って結婚するの」
といった大きな希望や夢を抱えている。


それでいて、実際は家の中に引きこもって何もしていない、
親に暴力をふるっていたりします。


こういうふうに、全然そこに近づいていないのに
希望を持ち続けることを「希望の構造」というわけですが
これは要するに幻想ですね。


幻想としての自分の夢と現実との間に
ものすごいギャップができています。


実際には、アルコールやギャンブルやセックスの依存症になっていたり
境界性人格障害におちいって感情の上下に苦しんでいたり
何の力もない状態です。


ところが、こういう人たちはますます自分の夢にとらわれていきます。


そうすると「こうなるはずだ
こうなるべきだ」と思うほうにどっとエネルギーが行って
実際に今何ができるかはお留守になってしまうのです。


希望の方にエネルギーが取られてしまって
今のことが何も見えなくなるのです。

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「希望の構造」③
- 2007/07/22(Sun) -

西尾和美氏「慢性的なトラウマからの回復と癒し」から


希望のほうにエネルギーを取られてしまって
今のことが何も見えなくなるのです。


子どもの時にはそれが生きる手段だったけれども
大人になった今では、
希望のほうに力を入れていても何も起こらないということです。


現実に注目しないと何の変化もありません。


問題を抱えている人たちは弱々しくなってしまいます。
自分は生きていてもしょうがない、
生きる価値がないと思っていますが
夢だけは大きいものですからますます焦ってくるわけです。


「こんなことをしていてはダメだ」
「私はダメだ」と焦ると、今度は自分を責めてきます。
「こんな私はダメだ」ということでどんどん苦しくなります。


自分を責めると、他人も責めますね。
まわりにいる人に八つ当たりしたり親がいれば家庭内暴力になる。
そういうことをしていると、症状はますますひどくなってきます。
家の中で何かフラストレーションがあるとボーンと殴るようになる。


このような人たちは、夢にとらわれて焦って
自分ができないことでますます苦しくなって
またその怒りを出す。


ーーーーそういう練習をしているわけです。
引きこもりの人は引きこもりになる練習
暴力をふるう人は暴力をふるう練習をしている。


「私はダメだ」「ダメだ」と何回言っても
その練習にしかならないわけです。


どこかで変えていかないと
同じことの繰り返しになってしまいます。

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まず身体から始める①
- 2007/07/23(Mon) -

西尾和美氏「慢性的なトラウマからの回復と癒し」より


引きこもりや依存症などの問題を抱えている人は
心の中にがあいています。


そういう問題行動のほうに力が行ってしまって
身体は大人になりますが
精神的な成長が追いつかなくて空洞ができています。


その空洞を少しでも埋めていかないと
いつまでたっても同じです。


身体は大きくなって暴力をふるう力がついてしまい
その練習ばかりして暴力的な行動だけが拡大して
心の空洞は埋まってきません。


ですから
「私はそういう家庭で育った」
「心の傷を持っている」ということに気がついて
「私は心の成長がどこかで止まっている」
「穴があいている。この穴を埋めなければいけないんだ」
ということをほんとうに自覚して
赤ちゃんに返った気持ちで第1歩からやらなくてはなりません。


大人の感覚でやっても回復しません。
大人の感覚でやると
「こうすべきだ」「ああすべきだ」
「あそこの大学院に入らなくちゃ」
という幻想のほうに行ってしまいます。


それはまず置いて
今、自分にできることは何か。
もう1度赤ちゃんになって
空洞を埋めるとしたら何ができるか。
そこに力を入れていきます。

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日々のこと
- 2007/07/24(Tue) -

パソコンの買換えを決める。
今のパソコンはもう8年目。
しかもMe・・・
よく持ったと思う、数々のトラブルを越えて。


でも、もうホントに限界。


で、昨日今日と仕事が休みだったので
今は東京に住んでいる長男(義理だけど)に
延々長電話で教えを乞うて、構成を選んでカスタマイズし、発注。


長男はパソコン関連の仕事を個人でやっているので本当に詳しいのだ。
心底助かった。真剣に考えてくれて、心から感謝してる。
ありがとう、お兄ちゃん。


8年前、パソコンを買ったのは、たった一人の叔父が急死して、
子どものいない叔父からの遺産相続があったからだった。


1千万円・・・・
ちょっとビックリする金額だった。


それで私はずっと欲しかったパソコンを真っ先に買い
3万円はする事典も買った。
〆て20万弱の買い物だった。


で、残りの980万はどうなったか?


夫と、こっちに来ていた義理の息子の次男とが
争うようにして使い果たした。
酒や博打に・・・・(笑)
それでも足りずに
さらに競い合うように1500万以上の借金をし続けていた。
やっぱり酒や博打に(笑)
あまりの馬鹿馬鹿しさに思い出すとどうしても笑えて来て仕方ない。


私には為す術はなかった。
当時二人は完全に狂っていた。
止めることなど、到底出来はしなかった。
「どん底」に向かって凄まじい勢いで転がり落ちていた最中だった。


私はそんな二人を横目にヘルパーとしてただひたすら働いていた。


娘を守るために、自分を守るために。


それ以外に何を失おうとも、
怖いとも惜しいとも悔しいとも、何も思うことさえなかった。


今は、ちょっと勿体なかったなあ~と思うこともあるけれど。

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まず身体から始める②呼吸を変える
- 2007/07/25(Wed) -

西尾和美氏「慢性的なトラウマからの回復と癒し」より抜粋


まずベーシックなところから始める。
「呼吸を変える」「睡眠を変える」「食べ物を変える」
                   「運動をする」「感情の制御」


「呼吸を変える」
腹式呼吸をしてみる。
浅かった呼吸を深くしてみる。
呼吸をしながら少し身体を動かしてみる。
鼻から息を吸って口から出す練習をする。


その時、今までの不安、やりたくないこと、困ったこと
心配ごと、うつになる気持ち、パニック、
イヤなことを全部、
鼻から息を吸って口から出す時にフーッと放していく。
これを3回やってみる。


ちょっと感じが違ってくる。
なんとなくリラックスした様な気持ちになる。
それは、すでに脳の回路が変わってきたから。
同じことをしていると同じところで回路がつながるので
同じ感情や同じ思考が出てきたり同じ行動になったりするが
こうしたベーシックなことを変えるだけでも
脳の回路は変わってくる。


朝、1分でも2分でも心を静かにして呼吸をしてみる。
午後もう1度やる。
夜寝る前にやる。
瞑想とか祈りとか何でもいいが、
呼吸を変える方法をやってみる。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


呼吸は、私自身とても大切にしている。


感情が昂ぶったり、
その反対にどんどん落ち込んだりする時
それらを手放すために、静かに横になり
もの凄く深ーい呼吸を、静かに何回か繰返す。


そうしながら、身体の芯の最もコアな部分を
ゆっくりゆっくり緩め、ほぐし、広げ、溶かしてゆく・・・・
指の先までそれらが伝わる頃、
空気が耳を圧するほどに
シーンと静まり返って透明になっていく。
そうすると、深い安堵感に包まれながら
自分自身も透明になって、空気に溶けるようにして消えていく。


後は静寂だけ・・・・
まるで・・・そう、
屍になったかのように、
横たわっているだけの自分がある。
真っ白な自分がある。
生まれたばかりのような自分がある。


一種のイメージトレーニングのようなものなんだろうか?


いつのまにか自然と身につけた、私だけの秘策、かな?(笑)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


そうそう、いつのまにか10000アクセス越えてました(笑)
「10000越えたら引っ越そうか」とか思ったこともあったけど
やめました。


理由は「めんどくせー!!時間ないよ~!!」

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まず身体から始める③睡眠
- 2007/07/26(Thu) -

西尾和美氏「慢性的なトラウマからの回復と癒し」より抜粋


「睡眠」
睡眠は意外と大切。
うつの人はあまりにも寝すぎ、
そうでない人は睡眠不足という形で問題になる。


朝、目を覚ましたらすぐに窓の外を見る。
陽の光を目に当てる。
日光が目に入るとセロトニンが出てくる。
セロトニンは脳内の神経伝達物質のひとつで
抗うつ薬の作用がある。
セロトニンはふだん脳内で生成されている物質。
陽の光が目に入るとセロトニンが出てくる。
うつの人は是非朝のうちに起きること。


6時半とか7時とか、日が昇る頃には起きる。
昼まで寝ていることがないように。
苦しくても、1回起きて窓から外を見る。
そして、目を日光に当てる。


それから14時間ほどすると今度は脳内にメラトニンが出てくる。
メラトニンは眠りを誘う方の物質。
7時に起きたら夜9時頃これが出始める。
出始めてから2時間くらいで最高の量に達する。
その頃に寝るのが一番いい。


朝7時に起きて、夜9時頃には電気を暗くする。
音楽を聴いたり本を読んだりテレビを見たりして
日常の活動をだんだん弱くしてゆったりした気分になって
2時間以内に床に就く。
こうすると自然のリズムができてくる。


朝7時に起きて陽に当たるとその時点でこのリズムがリセットされる。
夜12時か1時頃まで起きていたとしても
7時になったら起きて朝の光を見る。
お昼まで寝ていることがないように。
こうして、生物学的な自然なリズムを取り戻す。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


これは私にとって、一番難しいことだった。
何しろ、物心ついた頃からの筋金入りの睡眠障害だったから(笑)


ここ半年ばかり、やっと全く薬を必要としなくなった。


なぜなのか?


思い当たることは唯一つ。


doingからbeingへ・・・・


自分に嘘をつかない。
無理をしない。
容量以上に頑張らない。
人と競わない。
自分以外のものになろうとしない。


doingからbeingへ・・・・

私の内なる価値観が180度ひっくりかえったからだと思う。


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まず身体から始める④運動・食事・感情の制御
- 2007/07/27(Fri) -

西尾和美氏「慢性的なトラウマからの回復と癒し」より抜粋


「運動」
一日30分~40分ぐらいは動かないと、身体は弱ってくる。
脳と身体の結びつきは強い。
何でもいいから動く。歩く。ストレッチでもいい。
30分か40分身体を動かすと
ノルエピネフリンという神経伝達物質が脳内に出てくる。
そこでうつが治ってきて気持ちもよくなってくるという循環になる。
ちょっと動いてみること。


「食事」
バランスのいいものを、規則正しく適度に食べる。
炭水化物や脂肪を控えて野菜などを種類豊富に食べる。
なるべくいいものを食べて、たくさん水を飲む。
一日にコップ7~8杯の水を飲むのがいいと言われている。
たくさん水を飲んで、身体のコンディションをよくしていく。


まずは体力。
体力がなかったら癒しもできない。
寝ているだけではとても癒しにならない。
座ることのできる力、立つことのできる力、
動くことのできる力がどうしても必要になってくる。


何があっても、まず身体。
「何をしたらいいんだろう」という人は
寝る、運動する、食べる、呼吸を変える、
まずベーシックな身体作りから始める。


その次に「感情の制御」
感情のコントロールができないと、普通の生活はできにくくなる。
何かあるとすぐドーンと落ち込んだり、カーッとなったり
気分の上下が激しかったり、怒りの爆発があったりしては
人間関係は上手くいかない。
「感情の制御」。
自分で自分をなだめる力が必要。


自然の摂理に従うと、パニックや不安感、強迫感は
5~15分くらい待てば消えていくと言われている。
パニックなどになった時に
ウワーッとそこにのめり込んでいくのではなく
「今パニックになっているから、深呼吸して15分くらい待ってみよう」
ーーーこれができるようになると
自分で自分をなだめる力がついてくる。


自分に褒め言葉を与えたり
好きな音楽を聞いたり
自分にできそうなものを書き出して貼っておく。
困った時やドーンと落ち込んだ時には
考えようとしてもなかなか考えられないので
前もって貼っておいて、
「これならできる」ということを、すぐやってみる。
毎日必ず見るところに貼っておくのもいいと思う。


                               以上


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


西尾氏の言っていることを実行することが、どれほど困難なことか。


記事にしていて溜息が出てくる・・・・


行きつ戻りつ、戻りつ、戻りつで
いつまでたっても何ひとつ、いっこうに前に進んでいると思えない。
そんな絶望的な気持ちで、生まれてきたこと自体を呪ったこともあった。


しかし、最近はちょっと考えが変った。


西尾氏は、「正常になること」「成長すること」を最高の目標と捉えて、
それに向かって忍耐強く努力することこそ
「正しい人間の生き方」と考えている節があるように思う。


私もかつてはそうだった、多分。
確かに身体を作ることは、自分が楽になるためには
大変有効だったと思っている。
緊張や不安感に支配されていると、身体が常に硬直状態で、
それが原因と思われるさまざまなトラブルに、
頻繁に遭遇していたから。


しかし、私を本当に苦しめていたのは
「普通であらねば」「正常であらねば」という、
その「捕われ」自体ではなかったのか?
今ではそう思っている。


いいではないか、こんなもんで。
だから、人のことも
いいではないか、そんなもんで、とそう
思う。


そう思ったとき
初めて自分の弱さが意味を持ち、人の弱さとつながっていける。


不必要な人などいないし、無意味な悩みや苦労もない。

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夫について考える⑤
- 2007/07/28(Sat) -

夫の最初の結婚が破綻したのも、
夫の家出がその決定的な原因となっている。


夫は、23歳の時に
東京の叔父の靴工場で中学を出てすぐから働いていた、
2歳年上のK子と最初の結婚をしている。


K子は、物心ついた頃には
既に母親は精神障害で入院したままの状態が続いており、
一家の長女として4人の弟妹や父親のために、
幼い頃から家事のすべてをこなし、
家計を助けるためにずっと働き通してきたという
大変な苦労人であった。


その結婚生活では、
面倒見がよく忍耐強い2歳年上のK子に対して、
夫は甘えと我儘の限りを尽くしていたようである。


やがて叔父の靴工場が倒産し、
建築関係の仕事に就いてから夫婦揃って例の宗教団体に入信。
そのことも強い動機付けになって、夫は懸命に働いて27歳で独立。
更に数年後にはリフォームの有限会社も立ち上げ、
好景気の波に乗って一時期は
相当羽振りの良い生活を送ったこともあったようだ。


何十万もの現金を財布に入れ、
新宿や赤坂、銀座と飲み歩いては一晩で散財し、
そのくせ自宅は質素な借家住まいのままという身勝手な浪費癖は、
既にこの頃から始まっていたようだ。
「社長」気分に酔いしれていたのであろう。
苦労人だったはずのK子も、収入が増えるにしたがって変貌してゆき、
家の中はK子が買い漁ったあらゆる物で、溢れかえっていた。


そんな結婚生活も、会社の放漫経営が行き詰まると同時に破綻し始める。


物事が上手く行っている時は、無様なほど傲慢に威張り散らす夫だが、
一旦困難に直面すると、為す術もなく闇雲に逃走する。


私はそれが不思議で仕方なかった。
「えっ?こんなことで?」と思うようなことでも、
夫には到底耐えられないのだ。


あれほど亭主関白を気取っていたK子との結婚生活も、
会社が不渡り手形を出して倒産すると同時に終わってしまった。


夫は二人の子どもと妻を置き去りにして突然家出をしたのだった。


K子はそんな夫を、決して許そうとはしなかった。
「二度と顔を出すな。どこででも野垂れ死にしろ」


K子からのその電話が夫への最後通告となり、
二人の結婚生活はあっけなく終焉を迎えた。

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夫について考える⑥
- 2007/07/29(Sun) -

精神分析学者のマイケル・バリントは、
「一次愛と精神分析技法」のなかで
憎しみについてこう言っている。
「原初的対象愛の最後の残り滓であり、その否認であり、
それに対する防衛である」


自分にとって、非常に大切な人なのに愛してくれず、
その人の愛情を得ようと、最善の努力をしたにもかかわらず
どうしても協力的なパートーナーとなってくれなかった人を憎む・・・・


子どもにとって、母なのに愛してくれず、
母の愛情を得ようと、最善の努力をしたにもかかわらず
どうしても応えてくれなかった母を憎む・・・・


これが憎しみの原型なのだと。


夫の中に眠っていた憎しみを呼び覚ましたのはこの私だ。


私という人格の依存と隷属性の強さが
夫の充たされなかった愛情欲求を目覚めさせてしまったのだ。


それも、憎しみと支配欲という極彩色に彩られた
凶暴なモンスターの姿と化して。

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夫について考える⑦
- 2007/07/30(Mon) -

私を激しく打ちながら
恐怖のあまり凍り付いたような目をしていた夫。
弄ぶように罵りながら
絶望の淵で救いを求める幼子のような目をしていた夫。


今なら分る。
夫が叫んでいた言葉の本当の意味が。
今なら聴こえる。
夫が叫べなかった悲痛な嘆きの声が。


どれほど困惑したことだろう。
何度愚行を繰返しても、
「帰って来てくれ」と泣いて懇願する女がここにいる。
どれほど打ち据え罵倒しても、
何度でも立ち上がりほほ笑もうとする女がここにいる。


求めて得られなかった母への愛を否定し
愛を求めることでかつて傷ついた体験から
二度とそうならないように
そのことから我が身を守るために
常にすべてを捨てて
自ら消え去ることを選ばざるおえなかった夫。


ところがこの女は
どこまでもしがみついて離れようとはしない。
どんなに打っても、どんなに罵っても、どんなに愚弄しても
蛭のように張り付いて、振り払うことさえできない。


それは恐怖?それとも混沌?
深い絶望?かすかな希望?


夫の、長い間命がけで否認し続けてきた
受け止めてもらえなかった愛情欲求が
私のこうした行為によってその固い封印を解かれ
激しい症状=憎しみのマグマとなって表出され
母となった私に向かって一気になだれ込んできてしまったのだ。

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