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人格崇拝という共同信仰
- 2007/07/04(Wed) -

E.ゴフマンは、現代における自己は
「適切な儀礼的配慮をもって扱わねばならず、
また、他人に対し適切な姿で示さねばならない神聖な存在である」
としている。


ゴフマンは、現代社会において個人の一人一人が、
「儀礼的態度」をもってお互いに「敬い合う」という社会的場面において、
「個人主義という宗教における人格崇拝」の現代社会での実践を見ている。


「人格崇拝」という共同信仰によって保たれている
現代社会における社会秩序
は、
個人が互いに払い合う「儀礼的態度」によって支えられている
という社会の仕組みであった。


ゴフマンは儀礼の基本的成分を大きく二つに分類している。


それは「敬意 deference」と「品行 demeanor」である。
「敬意」は相手の聖性を侵さないように一定の距離を保って接するという
「回避 avoidance」儀礼と、
積極的に相手への関心を示すことによって相手に対する承認の保証をするという
「呈示presentational」儀礼という対照的な行為によって実現される。


また「品行」は自分が他者によって
「敬意」を払われるに値する人間であるということを示す行為である。


つまり「敬意」と「品行」の関係の裏には、
「一般に、人は自分で自分に敬意を与えることは許されず、
他人にそれを求めなければならない」
という前提のうえに、
他者に敬意を与えることを迂回した
自己に対する敬意の獲得という構図が存在する。


これはお互いの人格についての聖性を認め、
互いにそれを承認し合うことによって、
社会秩序が保たれていくという意味において、
「承認の体系としての社会」の存在を証明するものである。
 
現代社会において、
他者によって承認してもらいたいという承認の欲求は、
そのまま「聖なる」人格を有する自分についての確認の欲求である。


人びとはお互いが相手の神聖を崇め合う司祭でありつづけることによってのみ、
秩序ある世界に安らぐことができている。
 
  敬意を他人から求めるために、
  人は、自分 に敬意を払ってくれる人々を捜し出す必要があることを知り、
  そして社会のほうは、そのおかげで、
  成員が相互作用と関係に入っていく一つの保証を得るのである。
  もし人が自分の手でみずから望む敬意を与えることができたとしたら、
  その社会は、 みずからの殿堂のなかで、
  それぞれに限りなく祈り続けているような、
  孤独な信仰的な人々のみが住んでいる無数の島々に分解してしまうだろう。

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