FC2ブログ
日々のこと
- 2007/08/01(Wed) -

今日から娘は3泊4日の大学の合宿へ。
台風が近づいているのに台風の来る方へと南下して行った。


他大学のボーイフレンドもできた様子238
バンド活動を通じて知り合ったらしい。
あまり詳しくは話さないので詳細は不明。
好きな音楽の傾向が同じで、今度コンサートへ一緒に行く、とだけ。


音楽活動には相当熱を入れているようで
先輩のバンドにもボーカルとして招かれて
自分達のバンドと二つのバンドを掛け持ちして歌ってるとか。


なんだかオドロオドロしたバンドが好きらしく
そこは昔の私と同じだ。
服装や髪型もどんどん変化している。
私も相当な格好をしたものだから、好きにやればいいと思っている。


本当に楽しそうだ。
エネルギッシュに動いてる。
私は見ているだけで目が回る。
夏休みはバイトもガンガンやるつもりらしい。
塾が夏期講習で、ぎっしり予定を入れている。
家には殆どいないのだろう。
いまや家っ子の私は、逆に殆どどこへも行かないだろう。


こうして娘は旅立っていく。
どこか、私の見知らぬ世界へ。


もっと寂しいのかなと思ったけれど
ホッとしている自分がいる。
子育ての時間はあっという間に過ぎていった。


幸せだったなあ・・・・
あの温もりは、生涯忘れることはないだろう。



この記事のURL | 日々のこと | CM(0) | TB(0) | ▲ top
戦争と平和について考える
- 2007/08/02(Thu) -

私の極めて数少な~い(笑)友人の一人が(中学の同級生)
昨日、メールで知らせてくれた情報です。


8月ですもんね・・・・選挙も終わって・・・・
戦争と平和について、しみじみ考えるに最適な時期かと思いました。
本もそっちらへんを探して読んでみようと思います。


昨日8月1日に終了していた分は削りましたが
まだまだこんなに盛りだくさん。
録画して、できるだけ見てみようと思っています。


日時の再確認は必要かと思います。


しっかし、公共放送はすごい!


(以下、転載)


=戦争と平和を考える=   2007年夏


===================
終戦・被爆特集番組
===================

■8/4
◇NHK教育(前9:30)
 「あした元気にな~れ!半分のさつまいも」
*海老名香葉子原作。東京大空襲で家族を失った「かよちゃん」
「きいに いちゃん」兄妹が終戦直後の不安な時代をたくましく
生きていく姿を描きます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◇NHK教育(後8:30)
「土曜かきこみTVスペシャル~戦争と平和を考えよう」
*3千人の子どもたちを対象に戦争と平和に関するアンケートを
実施し、子どもたちの本音を考ます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◇NHK教育(後9:30)
 「中学生日記」
*ランディーズの高井俊彦が沖縄を旅し、現地の中学生に「戦争と平和、
 どう教わっていますか?」と質問します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◇NHK教育(後10:25)
 「一期一会 キミにききたい!」
*戦争と平和に関して異なる価値観の若者同士の出会いを描きます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◇NHK教育(後11:00)
 「トップランナー」
*被爆者と家族の物語「夕凪の街 桜の園」を発表した映画監督
佐々部清 をゲストに迎え、戦争の愚かさを描き出す思いを聞きます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◇フジテレビ(後9:00)
  「ゾウのはな子」
*戦争中、上野動物園で餓死させられたゾウの「花子」と、悲しい
体験に 苦悩しながらも再起していく飼育員(反町隆史)の物語


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


■8/5
◇NHKテレビ(後9:00 6日 後10:00)
「核クライシス」
*2夜連続で、核が「使える兵器」に変貌しつつあることを告発します
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◇NHKラジオ(後11:45)
「ヒバクシャの声」
*世界中に暮らす被爆者から電話やファックスでNHK広島放送局に
寄せられた声を紹介します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


■8/6
◇NHKラジオ(後8:05) 
「原爆の日特集~カンボジア・復興への架け橋『ひろしまハウス』」
*被爆者で、建設に尽力した国近京子さんを追います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◇ NHKラジオ(深夜1:10)*6日~10日まで5夜連続
 「いま戦争を考える~平和な明日を築くために」
*戦争体験者の証言を伝えるとともに、今、戦地で救援活動に従事して
いる人たちの声を聞き、平和のメッセージを発信します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


■8/7 
◇NHKテレビ(後10:00)
「アメリカ秘密尋問所トレイシィ(仮題)」
*サンフランシスコの尋問所トレイシィでは、2千人以上の日本兵が
尋問を受け日本の情報がアメリカにもたらされました。その事実を追います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


■8/8 NHK衛星(後11:10)*10日まで3夜連続
  「ドキュメンタリードラマ ニュルンベルク裁判(仮題)」
*ナチスドイツの幹部を戦争犯罪人として裁いたニュルンベルク裁判をテ
ーマとします。イギリスBBC放送制作
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


■8/9
◇NHKテレビ(後10:00)
「吉永小百合~想いを受け継ぐ子どもたちへ」
*「原爆詩の朗読会」を20年間続けてきた女優、吉永小百合の姿を描き
ます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◇NHKテレビ(後10:50)
「原爆のせいじゃなかとですか~長崎・原爆症認定への闘い(仮題)」
*原爆症認定をめぐる集団訴訟で長崎裁判の原告団長を務める森内実の活
動を通して、狭き門である認定の現実を映します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◇NHKラジオ(後11:20)
「8月9日 その日、長崎が消えるまで」
*発行から30年以上がたった『長崎原爆戦災史』の改訂作業を追います。
 被爆者の証言やアメリカの資料から、8月9日を再現します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


■8/10
◇フジテレビ(後9:00)*10日と2夜連続
    「はだしのゲン」
*中沢啓治が自らの被爆体験をもとに描いた作品の初のドラマ化。反戦思
想を貫く父・大吉役に中井貴一。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


■8/11
◇NHKテレビ(後6:10)
「週間子どもニュース:世界の平和ミュージアム~子どもたちが描いた戦争」
*紛争に苦しむ子どもたちが描いた絵を紹介。ウガンダの兵士だった12歳の
少年が描いたのは「子どもが自分の母親に銃を向けている絵」でした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


■8/12
◇NHKテレビ(後9:00)
「鬼太郎が見た玉砕~水木しげるの戦争」
*『総員玉砕せよ』を原作としたドラマ。戦争体験をマンガに描こうと葛藤
する昭和40年代の水木と、戦争の最前線にいた日々を交錯させて描きます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◇テレビ朝日(後2:00)
 「ザ・スクープスペシャル」
*被爆・終戦をテーマに放送します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


■8/13
◇NHKテレビ(後10:00)
  「東京裁判 A級戦犯はこうして選ばれた」
*アメリカのA級戦犯関連資料をもとに巣鴨刑務所での取り調べを再現。
 A級戦犯選定の過程をひもときます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


■8/14 NHKテレビ(後10:00)
「東京裁判 パール判事の真実(仮題)」
*東京裁判で「全員無罪」を主張したインドのパール判事の思想や実像に
迫ります
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


■8/16 NHK衛星(後10:10)
    「BS特集~証言の記録 マニラ市街戦」
*太平洋戦争最大の市街戦の実像に迫ります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


■8/17 NHK衛星(後10:10)
「実録 ニュルンベルク裁判」
*ニュルンベルク裁判についての当時の記録を再構成します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この記事のURL | 未分類 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
夫について考える⑨
- 2007/08/03(Fri) -

ボロボロになって、痛みを深くため込み
力なくただ佇んでいるだけの夫。
ひとりの剥き出しの人として、
ついに自分の存在と対面しなければならなくなった夫。
いままでずっと「強く」あろうとしてきて
しかも最後まで「強く」ありえなかった夫。
もう「弱さ」をさらさずには
生きてさえいけなくなってしまった夫。


私たちは破滅した。


そして、廃人のようになってしまった夫を前にして、
私は「できる」ことからではなく、
「できない」こと、「できなかった」ことからもう1度
夫ではなく自分の側から自分自身を見つめなおす以外に
到底、そんな夫を受け入れることはできなかった。


「できなくなる」こと、
「できなかった」ことのほうから自分を見つめるということは、
「何をするdoing(あるいは、してきた)か」というよりも、
「自分が何であるbeing(あるいは、あった)か」という問い、
さらには自分がここにいるということの意味への問いに、
差し迫ったかたちでさらされるようになるということだった。


思い知らされることの繰り返しのなかでしか見えてこなかったもの。
それは、意のままにならないということの受容・・・・
他なるものの受容・・・・


何かを意のままにするという強迫から下り、
「できる」ことにこだわって、
突っぱった生き方をしてきた頑なな自分をほどき、
自分がこれまで精一杯抑え込んできた自分のなかの「弱さ」と
ひたすら素直に向きあっていく。
人としての「弱さ」にみずから向きあうことから始める。
それが今いちばん必要なことなのではないか。


それはそのまま、宗教との決別でもあった。


「ただいる」ということだけで
人の存在には意味があるのではないかという問い。


あらゆるものを削ぎ落としていったその果てに、
「強さ」への強迫から放たれて
私の中に「何か」が残った。

この記事のURL | 夫について考える | CM(0) | TB(0) | ▲ top
日々のこと
- 2007/08/04(Sat) -

パソコンが来ました。
明日からいよいよ引越し作業に入ります。


引越しは初めてで、一からのスタートです。
相当不安です・・・・12


今日、娘が合宿から帰ってくるし、東京のお兄ちゃんもいてくれるし
きっと何とかなるでしょう・・・・なるはず、なんですが・・・


作業が順調に進まなかったら
暫らく更新できないかもしれません。


そうですねえ~、こんなへんぴな所にも
最近、家のすぐ近くにネットカフェができたから
そこへでも行ってみようかしら?


一昨日は洗濯機が壊れてしまって、慌てて買いに行きました。
洗濯は一日も欠かせない家なので、次男君に頼んでお持ち帰り。


で、店に行って、もの凄くビックリしました!
今時、188000円もする超豪華版の洗濯機があるんですね~
店員さん曰く
「今出ている洗濯機の中で一番高価なものです!」
なんだか店員さんまでやけに誇らしげに語っていました(笑)


ドアを開けたり閉めたり、あちこち触るだけ触って、撫で回して
チラシに出ていた25800円の洗濯機を買いました。
店員さんごめんなさい。
楽しい時間をありがとうございました。


疑問????
あんな高い洗濯機で、一体どんな服を洗うんだろう????


うちなら、先にあの洗濯機に相応しい
服を買うところから始めなきゃと、本気でそう思ってしまいました。

この記事のURL | 日々のこと | CM(0) | TB(0) | ▲ top
日々のこと
- 2007/08/05(Sun) -

無事作業終了しました!
娘も相当役に立ったし、長男はやっぱり凄腕でした!


この私を相手に懇切丁寧に懲りもせずに、よくぞ頑張ってくれました。


感謝感謝。


私は気だけ揉んで、それでも相当疲れました・・・・


よって本日は、これにておやすみなさいませ

この記事のURL | 未分類 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
夫について考える⑩
- 2007/08/06(Mon) -

「がんばれ」というのは
「強い人間になれ」ということだったのだ。


(私はこれまで何度自分に、夫に、そう言ってきたことだろう・・・・)


「強い人間」というのは
自分の「意思」にもとづいて「自己管理」ができ
「自己責任」を担うことのできる人間のことだ。


そういう「自立した自由な人間」が
社会から宗教団体から要求されていたのだ。


(そして、私もまた、その社会的・宗教的な価値観を忠実に内面化し
 それを自他共に要求し続けて生きてきてしまったのではないのか・・・・)


それ以外の人間は厄介者として
管理され、保護され、迷惑をかけない存在でいなければ
生きてさえいけないという体制が今の世界の在り方なのだ。


(現実に不適応者の私は、住む家さえ失い暗い街を彷徨っていた・・・・
 宗教団体の中でも私は、常に苛めと排除の対象とされていた・・・・)


できるという能力、できたという実績をもとに評価され
その評価に基づいて
幾ばくかの何ものかを得ることで成り立っている社会。


学校だけでなく社会全体が
常に「する」存在として人間を問い詰めている。


「あなたは何ができますか」
「どの程度できますか」
「何をしましたか」


入学試験、入社試験、資格試験、昇進試験・・・・
そして、信仰心までが数値化され評価の対象とされてしまう。


人は死ぬまで
「何をしたか」「何ができるか」という評価に晒されて
こんなにも呻いているんじゃないのか。


極限的な身障者の方が
例えば
生まれたときから言葉もない、動くこともままならない、目も見えない
そんな存在の方が、自らの存在そのものを賭けて
私に語ってくれていることとは一体何なのか。


結局「ある」ということなのではないか。
「ある」こと自体が価値だということを
全存在を賭けて私に示してくれているのではないのか。


「する」のくびきから解き放たれ
「する」に押し込められたままになっている価値観から脱し
「ある」こと自体が価値だという
存在の根源へとストレートに戻り、全肯定すること。


夫とともに生きるということは、実は誰でもないこの私自身が
「弱くあること」の意味を突きつけられ
問い質される
ことに他ならなかった。

この記事のURL | 夫について考える | CM(2) | TB(0) | ▲ top
戦争と平和について考える
- 2007/08/07(Tue) -

広島市長の平和記念式典での「平和宣言」を読みました。


大変感動し、胸を締め付けられ、涙し、怒り、


自分自身のために、この「平和宣言」を残しておきたいと思いました。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


平和宣言


運命の夏、8時15分。朝凪(あさなぎ)を破るB-29の爆音。
青空に開く「落下傘」。そして閃光(せんこう)、轟音(ごうおん)―
―静寂――阿鼻(あび)叫喚(きょうかん)。


落下傘を見た少女たちの眼(まなこ)は焼かれ顔は爛(ただ)れ、
助けを求める人々の皮膚は爪から垂れ下がり、髪は天を衝(つ)き、
衣服は原形を止めぬほどでした。
爆風により潰(つぶ)れた家の下敷になり焼け死んだ人、
目の玉や内臓まで飛び出し息絶えた人――辛うじて生き永らえた人々も、
死者を羨(うらや)むほどの「地獄」でした。


14万人もの方々が年内に亡くなり、死を免れた人々もその後、
白血病、甲状腺癌(こうじょうせんがん)等、様々な疾病に襲われ、
今なお苦しんでいます。


それだけではありません。ケロイドを疎まれ、仕事や結婚で差別され、
深い心の傷はなおのこと理解されず、悩み苦しみ、
生きる意味を問う日々が続きました。


しかし、その中から生れたメッセージは、
現在も人類の行く手を照らす一筋の光です。
「こんな思いは他の誰にもさせてはならぬ」と、
忘れてしまいたい体験を語り続け、
三度目の核兵器使用を防いだ被爆者の功績を
未来(みらい)永劫(えいごう)忘れてはなりません。


こうした被爆者の努力にもかかわらず、
核即応態勢はそのままに膨大な量の核兵器が備蓄・配備され、
核拡散も加速する等、人類は今なお滅亡の危機に瀕(ひん)しています。
時代に遅れた少数の指導者たちが、未だに、
力の支配を奉ずる20世紀前半の世界観にしがみつき、
地球規模の民主主義を否定するだけでなく、
被爆の実相や被爆者のメッセージに背を向けているからです。


しかし21世紀は、市民の力で問題を解決できる時代です。
かつての植民地は独立し、民主的な政治が世界に定着しました。
さらに人類は、歴史からの教訓を汲んで、
非戦闘員への攻撃や非人道的兵器の使用を禁ずる国際ルールを築き、
国連を国際紛争解決の手段として育ててきました。
そして今や、市民と共に歩み、悲しみや痛みを共有してきた都市が立ち上がり、
人類の叡智(えいち)を基に、市民の声で国際政治を動かそうとしています。


世界の1698都市が加盟する平和市長会議は、
「戦争で最大の被害を受けるのは都市だ」という事実を元に、
2020年までの核兵器廃絶を目指して積極的に活動しています。


我がヒロシマは、全米101都市での原爆展開催や世界の大学での
「広島・長崎講座」普及など、
被爆体験を世界と共有するための努力を続けています。


アメリカの市長たちは「都市を攻撃目標にするな」プロジェクトの先頭に立ち、
チェコの市長たちはミサイル防衛に反対しています。
ゲルニカ市長は国際政治への倫理の再登場を呼び掛け、
イーペル市長は平和市長会議の国際事務局を提供し、
ベルギーの市長たちが資金を集める等、
世界中の市長たちが市民と共に先導的な取組を展開しています。


今年10月には、地球人口の過半数を擁する自治体組織、
「都市・自治体連合」総会で、
私たちは、人類の意志として核兵器廃絶を呼び掛けます。


唯一の被爆国である日本国政府には、
まず謙虚に被爆の実相と被爆者の哲学を学び、
それを世界に広める責任があります。
同時に、国際法により核兵器廃絶のため
誠実に努力する義務を負う日本国政府は、
世界に誇るべき平和憲法をあるがままに遵守し、
米国の時代遅れで誤った政策にははっきり「ノー」と言うべきです。
また、「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め、
平均年齢が74歳を超えた被爆者の実態に即した
温かい援護策の充実を求めます。


被爆62周年の今日、私たちは原爆犠牲者、
そして核兵器廃絶の道半ばで凶弾に倒れた
伊藤前長崎市長の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げ、
核兵器のない地球を未来の世代に残すため行動することをここに誓います。


2007年(平成19年)8月6日
広島市長 秋葉忠利

この記事のURL | 日々のこと | CM(0) | TB(0) | ▲ top
日々のこと
- 2007/08/08(Wed) -

今日8月8日、立秋。


夏が過ぎて秋の気配がたち始めるという立秋だが
相変わらずの酷暑が続き体調もすぐれない。


ふと、大きな間違いを犯しているような気がしてギョッとする。


こうなってくると要注意だ。


帰りに図書館へ行こうかと思ったがそれもやめて
感情を、取り合えずは制止し、観察・・・・


多分、今日のは怒り。
過去に関わった人への怒り。
長い間妄想的に関わってしまったことへの怒り。
そしてまだどこか支配されている自分自身への怒り。


家事に精を出し、ゆっくり湯船に浸かろう。




この記事のURL | 日々のこと | CM(0) | TB(0) | ▲ top
夫について考える⑪
- 2007/08/09(Thu) -

今朝は寝坊をしてしまい慌てて下へ降りたら
夫はもう起きていて玄関で立ったまま朝刊を読んでいた。


「ごめん!寝坊しちゃった!4時半に起きたのに2度寝しちゃった!」


「いいよ、眠かったら寝てれば?」


「ううん、大丈夫!びっくりしてすっかり目が覚めちゃったよ(笑)
急いでお弁当作るから、もうちょっと待っててね!」


短く会話し、ばたばたと台所へ。


暑い日が続き、食欲も落ちているだろうと思って
最近のお弁当作りには力が入る。


おかずの品数を増やし
最低でも5種類は入れるように心がけている。


それが功を奏してか、夫も息子も残さず食べているようだ。


「朝ごはん間に合わないから
おにぎり作るから車の中でそれでも食べておいてね」


シラスと高菜で大きなおにぎりを握っていると夫が台所に来て


「うまそうやな~。自分で弁当作ろうかどうしようか迷っていたけど
作らなくて良かったよ(笑)」


「うん、えらいでっかいおにぎりになったけどしっかり食べてね」


どことなくいそいそとしながら夫は仕事へと出かけて行った。


アルコールを飲まなくなって2年近くは呆けたようになってしまって
仕事もできず、ふらふらと街を彷徨っていた夫。


どこで何をしているのか、何も分からなかった。


それでも毎朝お弁当を作り夫に持たせた。


夜は帰ってくる日もあれば何日も家を空けることもあった。


それでも毎晩夫の分も晩御飯を作ってテーブルに並べた。


精一杯のメッセージだった。


「いるだけでいいんだよ」
「ここがあなたの居場所なんだよ」


私は、傷つき病んでいる丸ごとの夫を力いっぱい受け止めたかったのだ。


当たり前の暮らしはできなくても生きていればそれでいいんだ。


夫を受け止めようとした力は自分に返り
私自身を受け止める温かな力となって身体を充たした。


合宿から帰った日、娘が言った。


「この家って、なんかもの凄くあったかくて居心地いいんだよな~
なんかよその家とぜんぜん違うんだよな~」と。


弱さを弱さとして認め合い、弱さを絆にして共生する新たな私たち家族の再生は
誰でもない夫が教えてくれた生き方だったのだと今ではそう思っている。


この記事のURL | 夫について考える | CM(0) | TB(0) | ▲ top
自己愛の障害について考える①
- 2007/08/10(Fri) -

カウンセリングルーム:Es Discovery より


自己愛の障害
自己と他者の境界線を越えて幼児的な全能感を満たそうとし
自己の発言や行動、症状、振る舞いによって
他者との間に『自分に有利な相互作用』を働かせようと操作する。


顕示的な自己愛障害
『支配的・威圧的・利己的』に強気の姿勢で他者を操作しようとする。
相手が自分よりも不利な立場で
能力的に劣っていないと上手くコントロールできない。
自信過剰でパワフルな顕示型では
『他者の自己不信・不安感・利己心・依存心(被保護欲求)』を
巧みに利用することで他者を自分に従わせる。
他者の依存心を上手く引き出すのは
権威主義的な宗教の指導者や
集団のリーダーの周囲に働くものと近似している。


顕在型自己愛性人格障害の特徴
 
『外向的・活動的・高揚した誇大性
 見栄っ張りな承認欲求の強さ・共感性の欠如
 他者を利用する対人関係・不特定多数を誘惑する性的逸脱
 自己の特別視と他人の軽蔑・鈍感さと優越感・衒学趣味・権威主義』など。
 ウィンク(Wink)は
 『誇大‐自己顕示型』や『鈍感型(oblivious)』と呼んだ。


潜在的な自己愛障害
『自虐的・誘惑的・依存的』に弱気な態度で他者を操作しようとする。
相手が自分よりも有利な立場にいて
弱者に対する共感性が強いほどコントロールしやすい。
悲観的で脆弱な潜在型は
『他者の良心・罪悪感・共感性・自尊心(優越感)』を巧みにくすぐり
他者の援助や愛情を受け取りやすいように操作する。
他者の情愛や保護欲求を上手く引き出す原型は
生まれたばかりの無力で可愛い赤ちゃんの微笑と泣きにあるが
精神的な退行と幼児的な欲求を相互に甘えて満たしあう
恋愛関係でも一時的にそういった力学が働くことがある。


潜在型(covert)の自己愛性人格障害の特徴
 『内向的・抑制的な謙遜・萎縮したシャイネス(恥ずかしがりや)
 恥を恐れる自己防衛の強さ・見せ掛けだけの共感性
 対人関係の虚無感・自己を優位に置く虚言癖
 他人の成功や能力への慢性的な嫉妬・傷つきやすさと劣等感
 流行志向・相対主義』など
 社会性不安障害(対人恐怖症)と類縁性がある。
 ウィンクは潜在型を
 『脆弱‐敏感型』や『過敏型(hypervigilant)』と呼んだ。


自己愛性人格障害は自己評価の調節障害であるが
女性分析家カレン・ホーナイは病的な自己評価として
『具体的根拠のない自己礼賛
 際限のない愛と承認の欲求
 自己の影響力や名声を想像的に拡大する自己膨張
 思い通りにならない対人関係における憎悪と怒り』を上げた。


病的な自己評価や価値の引き下げにこだわる人は
現実的な根拠のない自己愛的な自己膨張によって
発達早期の子ども時代に受けた心的外傷の不安や
自己評価の低下を補償しようとしている。


価値の引き下げというのは
自分の成功や承認の妨害となっている他者の価値を引き下げ
自分が求めても得られない対象を脱価値化することである。


ホーナイは
『空想的な自己膨張によって自閉的な自己中心性が強化され
自己膨張は他者への関心と愛情を弱めるので
結果として対人関係が悪化し
承認欲求(自尊心)が満たされなくなってしまう』とした。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


これって、私と夫そのものじゃない?(爆)

この記事のURL | 自己愛の障害について考える | CM(0) | TB(0) | ▲ top
今日の花
- 2007/08/10(Fri) -


今日の花 紫苑


花言葉 追想

この記事のURL | 未分類 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
日々のこと
- 2007/08/11(Sat) -

私は昨日からお盆休みに入っていたが、家族全員が今日からお盆休みに入った。


家族4人が家にいると、大抵誰かがごろごろしているから嵩張って仕方ない(笑)


娘は予定がいろいろ入っているようだが、他は誰も何の予定もない。


「家でゆ~っくり」 多分それだけ。


私ものんびりしようと決めて、休みの間の「食事作り放棄」を宣言。


その日の気分でわいわい相談しながら、
買ってくるなり出かけるなり出前を取るなりなんなりすればいいだろうと決めた。


こんな時、誰も文句を言わないのがこの家族のとてもいいところ。


誰か一人がばたばたすると、結局どことなくみんなも落ち着かなくなる。


だから私も、思いっきりのんびりするぞー!290

この記事のURL | 日々のこと | CM(0) | TB(0) | ▲ top
自己愛の障害について考える②
- 2007/08/12(Sun) -

カウンセリングルーム:Es Discovery より


『潜在的な自己愛性人格障害(covert NPD)』
自己愛障害として社会不安障害(対人恐怖症)
恥ずかしがりやすい症状(シャイネス)と重なり合う部分が多い。


人前(社会的場面)で何かをすることを恐れる
不安障害の一種としての社会性不安障害(対人恐怖症)は、
他者の否定的評価や侮蔑的態度、拒絶の意志から
自分を過剰防衛することで発症する。


社会不安障害を発症した人は、
自分の失敗(欠点)や緊張(臆病)を他人から見透かされた時に生じる
『恥辱感・屈辱感・無力感』を異常なまでに極端に恐れ、
人前や公式の場面で発言(行動)することを
出来るだけ回避しようとして日常生活に支障がでてくる。


それは、何が何でも他人から普通の人(自信のある人)として良く見られたい、
変な人(臆病な人)として悪く思われたくないという
『自己愛(自尊心)の強さ』の表れでもある。


他人の内面に対する想像力が強すぎる人や
他人の発言や評価に過敏に反応し過ぎる人というのは、
一般的に自分を全ての恥や失敗から守ろうとする自己愛が強く、
潜在的な自己愛障害が
社会性不安障害(対人恐怖症)の不適応症状として現れやすくなる。


自己愛性人格障害には、
自己主張が強くて傲慢不遜な雰囲気を漂わせている
『顕在的(overt)な自己愛性人格障害』だけではなくて、
自己愛が強いために他人の否定的評価で傷つけられることを恐れて、
過度に礼儀正しい振る舞いを心がけたり、
社会的活動(自己主張)に対して消極的・回避的な態度を示したりする
『潜在的(covert)な自己愛性人格障害』もある。


潜在的な自己愛のレベルが高くなりすぎると、
社会的場面で強烈な不安と緊張を感じる対人恐怖症だけでなく、
他者の評価を受ける可能性があるあらゆる社会的場面(対人関係・職業活動)から
退避しようとするひきこもりの問題が生まれてくることもある。


非社会的な問題行動と相関関係の高い『潜在的な自己愛』は、
職業選択や異性関係(性選択)などによって確立してくる
社会的アイデンティティの拡散
(モラトリアムの遷延による就業困難アパシー症候群)とも
密接な関係があると考えられている。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ウム・・・・
確かに若いころはこうした傾向が極端に強かったと思うが
現在は、パートとは言え一応仕事にも出れているし
宗教団体以前からの長い付き合いの人間関係もわずかながら残っている。


今の時点で、まだこうした反応を示してしまう大きな原因になっているのは
長い間ひとつの宗教団体の中で、
唯一絶対の価値観のもと極めて自閉的に生きてきて
ましてやそこで、今思えば大変な苛めともいえる行為を
(特に、なぜか幹部に嫌悪されていた私は、その幹部たちに何度も
囲まれて批判される・排除される・吊るし上げられる等々の壮絶体験をしている・・・・)
長年受けてきたことの影響が根強く残っているように思う。


「もうこの団体とは距離を置き、身を引こう」と最初に決心した時
今でもはっきり覚えているのは
「もうたくさんだ!!」という激しい怒りを初めて心の底から強烈に感じたことだった。


それまでは、すべて自分が悪い、すべて過去世の行いが悪い
すべてが宿業であり、命の穢れであり、信仰心が不足しているからであり
吊るし上げられてはただ泣いて反省し、自分を責め抜いて
先の見えない命がけの精進へとただひたすら埋没していくだけだったのに。


「もう、いいよ!地獄へでもどこへでも行ってやるさ!そのほうがよっぽどマシだ!」って
ホントにあの頃、怒り狂っていたなあ(笑)


世の中の人たちのほうが、慈悲を標榜する件の宗教団体の人達よりも
遥かに温かく私を受け入れてくれたし、常識的に関わってもくれて
働き始めた最初のころは大変に驚いたものだった。


こうした平凡な社会生活を少しずつ積み重ねてきたことによって
徐々にではあるが、対人関係への恐怖心も薄らぎ始め
新しい人間関係(現職場や過去の職場の友人等)も生まれて
少しびくびくしながらも、『普通に「ある」私』だけでやっていけるんだなと
認識が変わり始めているような気がする。


ただ、今もって件の宗教関係者に対する恐怖や嫌悪感は
もの凄く深く私の心に根を張っていて、
とても平常心で関わることは、まだまだ当分出来そうにない。

この記事のURL | 自己愛の障害について考える | CM(0) | TB(0) | ▲ top
自己愛の障害について考える③
- 2007/08/13(Mon) -

「ナルシズムー天才と狂気の心理学」(中西信夫)より


H.コフートの自己愛理論


フロイトは、
自己愛を病理的な性倒錯の一種と考えたが、
自己心理学を創始したコフート(Heinz Kohut, 1913)は、
自己肯定的な自尊心と活動性の原動力となる『自己愛の発達』を
正常な精神発達の一つとした。


フロイトは、
自他未分離な状態にある『乳幼児期の自体愛
(一次性ナルシシズム)』は未熟で無力なものと考え、
異性を愛すべき『成人期の自己愛(二次性ナルシシズム)』は
病理的な性倒錯であり、生殖活動(性器統裁)と
社会適応を抑止するので有害だとした。


コフートの自己心理学では、
乳幼児期の攻撃性や破壊性にまつわるメラニー・クラインの
原始的防衛機制(分裂・否認・投影性同一視)や
フロイトの死の本能(タナトス)説を否定して、
乳幼児の攻撃行動や破壊衝動は、
生理学的な欠乏や不満を訴える
生の本能(エロス)の現れであるとした。


コフートは
フロイトが精神の健康性(病理性)に最も大きな影響を与えるとした、
男根期のエディプス・コンプレックス
(去勢不安・男根羨望・罪悪感)も重視せず、
一生涯、母親への愛着の克服に呪縛される
エディプス的な人間観をも捨象し、
その自己愛を前提とする人間観は、
基本的に肯定的で楽観的なものであり、
『健全な自己愛(self-love)』の成長を促進することで、
他者を共感的に思いやる対象愛(object love)も発達し、
社会活動に積極的に参加しようとする適応性も高まるとする。


コフートの自己愛とは、
『自己存在の積極的な肯定』であり
『理想化と関係する自尊心(自信)の基盤』
さらに『自己愛と対象愛は表裏一体である
(自己愛がなければ他者を愛せない)』
としている。


フロイトにとって
自己愛は『自己愛から対象愛への正常な移行(本能変遷)』を
成し遂げられなかった病理的状態だった。


しかし、コフートにとっての自己愛は
『誰もが持つべき自己肯定感(自尊心)の基盤』であり、
苛酷な人生を乗り切る為に必要な“生のエネルギー”の源泉であった。


現実の対人関係や社会活動での状況や心理を
より良く説明しているのはコフートの自己愛理論といえる。


自己愛を完全に捨て去って
自己の外部にある対象(他者)だけに
欲求(関心)を注いでいる人間がいないように、
人間は他者と向き合ってコミュニケーションする為に、
自尊心や自己肯定感情の基盤となる自己愛を必要とする。


コフートは自己愛の定義として、
『自分自身を愛する自己愛』
『自己対象を愛する自己愛』を挙げている。


つまり、コフートの言う自己愛とは、
自分にとって大切な他者である
“自己対象(self-object)”を含むものであり、
単純に、内向的かつ排他的な自己愛ではないのである。

この記事のURL | 自己愛の障害について考える | CM(0) | TB(0) | ▲ top
日々のこと
- 2007/08/13(Mon) -

昨日は娘と息子と3人で電気店へ行き
プリンターとスピーカーを新しく買い換えた。


夫も誘ってみたが、夫は古本屋に入り浸り。
今は藤澤周平に嵌っているのだとか。


実際プリンターなんて、今のPCじゃあ使えないぐらい古いものだし、
スピーカーは、一つはとうから壊れていて
もう一つも、最近では聞こえたり聞こえなかったりという有様。


全くもって最悪の環境に置かれていたのだ。


で・・・ついつい・・・
予定にはなかった700万画素の超お買い得のデジカメを衝動買いしてしまった!


私がずっと欲しがっていたのを良く知っている二人に
「買っちゃえ、買っちゃえ~」「買っちゃえ、買っちゃえ!!」と、散々煽られて
普段は財布の紐が鉄壁に堅いこの私も
ああ~ついに誘惑に負けて買ってしまったのである・・・・


にもかかわらず、いざ買ってしまうと嬉しくて嬉しくて顔が緩みっぱなし238


デレデレ~ニマニマ~、ちょっと薄気味悪い、自分でも(笑)


しかし、反対に、今日は相当憂鬱な日。


それというのも、ここのところずっとミゾオチに痛みと違和感が続いていて
医者嫌いの私をなんとか病院へ行かせようと、
家族がみんなで結託して私を攻めまくるから
本日とうとう朝から病院へ行かなければならなくなったのだ。
それも付き添い二人にしっかり拘束されて・・・・406


「癌です」とか言われたら・・・・
このブログは、急遽、闘病記に変わることでしょう、なんちゃて。


では、重い腰を上げて支度を始めることと致しましょう・・・・・

この記事のURL | 日々のこと | CM(0) | TB(0) | ▲ top
日々のこと
- 2007/08/14(Tue) -

盆休みには病院なんて行くものじゃない。


↓こーんなに古びた市民病院なのに。



玄関を入ったところでは、↓こーんなに空いているかのように見えたのに。


ssIMGP0002.jpg


2時間近く待って、看護師さんに後どれぐらいかかるか聞いてみたら
看護師さん曰く
「本日お盆で、よその診療所さんもお休みが多いので、大変混雑していまして
 あと・・・・そうですね、最低でも3時間はお待ち頂かないと」


私「ギョーーッそんなーーーー!5時間もーーーーー!
看「皆さん朝からお越しになって5~6時間はお待ちになっておられます」


即効諦めました・・・・
そんな根性ないし、時間勿体ないし。


これだから病院はホーントにいや!


きっと、盆明けには、絶対病院へ行くから・・・・と言い訳しつつ家に帰る。


ちなみに、これらの写真は先日買ったデジカメで撮って
いろいろと編集する練習をしている過程のもので
まあ、出来損ないではあるが、嬉しがってアップ!(笑)






 

この記事のURL | 日々のこと | CM(0) | TB(0) | ▲ top
自己愛の障害について考える④コフート
- 2007/08/14(Tue) -

「ナルシズムー天才と狂気の心理学」(中西信夫)より



コフート・自己の発達と自己愛人格の形成


コフートは自分の臨床的体験をもとにして
独自の自己の発達理論を組み立てている。


断片的自己期(誕生から6~8ヶ月)


人間の自己は、生まれながらに存在するものではないが、
親たちは妊娠中からすでに「赤ちゃんが喜んでいる」などといって、
一人の人格をもったものとして自分の子どもを見ている。


このように出生前後から親が子どもに対してもっている気持ちを
実質自己」とよんでいる。


しかし、現実の乳児はちょうど地球ができあがる以前のような
星雲状をなしたバラバラな自己(断片的自己)と考えられ、
この時期、乳児が自分の指を懸命にしゃぶっている行動などは、
自分の口と自分の指とはまったく他人同様の関係にあるとみられるので、
こうした自己の状態を推論して「断片的自己」と命名した。


臨床的には、何か病気を持っているのではないかと気にかける心気症や、
同性愛などの倒錯した空想や行為にふける症例を、
この断片的自己期に退行した状態であるとコフートは見ている。


凝集自己期と三つの欲求(生後6ヶ月から3歳前後)


断片的自己が次第に凝集してくると、
中核となる自己をつくりあげる(凝集自己期)。


このような状態のときの自己をコフートは
「外界からの感受性と同時に内なる自発性の中心」とみている。


これまでの精神分析的自我心理学が、
自己を客体としてみているのに対して、
コフートは、主体の活動力の源泉とみているのが特徴的である。


この段階は、様々な経験的観察から推測して、
生後6ヵ月から3歳前後までとみているが、
未熟な自己は3つの欲求をもっている。


第1は、自己を誇示し、見せびらかしたいという欲求である。
このような自己の側面を「誇大自己」とよんでいる。
この欲求を受け止めて、母親がその表情の中に映し出してやり、
「○○ちゃんは立派な子よ」「○○ちゃんは可愛い子よ」
といった賞賛をおくることによって子どもは満足されるのである。
このような鏡映的な自己対象関係の中で、
人々が幼い子どもに共感してくれると、子どもは自信を示し、
自己をよく表現するようになる。
もし共感が得られないと、自分にも他人との関係にも
落ち着かない不安定なものとなる。


第2には、子どもは自分の親たち、
特に父親を理想化したイメージをもって見ており、
こうした万能的な、何でもできる父の一部である自分を幸福に思っている。
この理想化された自己対象関係で、
理想的な存在である父と融合したいと思う。
もし失敗すると、自分の一生を通して導く理想がもてなくなる。


第3は、同じような人間と交わり、同化したいという欲求をもっており、
これを分身(双生児)欲求といい、分身転移という形で現れる。
この分身双生児的な自己対象関係は、子どもが他の人と同じでありたい、
またコフート曰くは「人間の中で人間的存在」になりたいという
願望を満たすことである。
これに失敗すると孤独と疎外感を感じる。


これら3つの欲求が満足されないと、
誇大自己はいつまでも幼児的な自己顕示性を示したり、
自分だけが偉い人だと思うような横柄な態度を示すようになる。


また、親が理想からほど遠いと、失望して宗教的な教祖や英雄、
アイドルたちなどに心酔してしまうような事態になる。


この凝集自己期では、自分と親とが未分化なので、
この二つの方向性は双極的な関係をなしており、
親の偉大さを讃えることは同時に自己讃美でもある。
こうした関係をコフートは「自己対象関係」という用語で説明している。

この記事のURL | 自己愛の障害について考える | CM(0) | TB(0) | ▲ top
自己愛の障害について考える⑤健康な自己の発達
- 2007/08/15(Wed) -

「ナルシズムー天才と狂気の心理学」(中西信夫)より



健康な自己の発達


親からの適切な対応があれば、自己は「機能する自己」にまで成長する。


凝縮自己期」から「機能的自己期」へのこの発達段階での
幼児の中核自己の発達を
誇大自己」の側面と「理想化された親イメージ」との二つにわけて
それぞれに三つの段階を設けている。


第一段階の誇大的・顕示的な自己に対応して、
親、特に母親が子どもの自慢や誇りを受け入れてやると
幼児の自己は安定し、しっかりとしたものとなる。


そして第二段階の自己主張に発達するが
これにも親が適度に満足を与え
時には多少の欲求不満も起こさせたりすることによって
自己はさらにしっかりした安定したものになる。


そして第三の野心の段階に成長し、
さまざまな創造的エネルギーの源泉となるのである。


他方、理想化された親イメージの発達は
まず第一段階で万能な親と融合したいという願望がかなえられると
次の第二段階では理想的人物への讃美となる。


初めは「私のお父さんは世界一」というようなことから
やがて、天才、英雄、教祖、アイドルなど
家族以外の存在への讃美となる。


この段階で未熟なときは
アイドルと自己とが自己対象的になって、アイドルを讃えつつ
自分自身の顕示性も満足させているという状態になる。


時にはアイドルや教祖の死は
同時に自己対象的関係にある自己の壊滅をもたらし
自殺や心中という行動化に走ったりする。


この未熟な自己の段階から成長すると
第三段階ではより抽象的な目標が設定され、
そこに全精力が注がれるようになる。


多くの天才や英雄たちが、自分の理想に命を懸けているのは
こうした理想化された親イメージの、延長線上にいるからである。

この記事のURL | 自己愛の障害について考える | CM(0) | TB(0) | ▲ top
日々のこと
- 2007/08/15(Wed) -

私のお盆休みは今日でおしまい。


夫と娘はもう一日お休みらしいけれども、
娘は今日から友人宅へ泊まりに行って
明日はそのままバンド練もあって、帰りは遅くなるとか。


また慌しい日常生活が再開されるんだなあと実感する。


今朝、娘と二人で
一部パソコン設定のやり直しをしていた時に
「お父さん、盆休みの間ずっとのーんびりしてたな~。
 全然イライラせえへんし、なんかびっくりやわ(笑)」
と娘が何気なく言った。


「せやなあ~。なんか幸せそうやったな~。よかったなあ~」
そう答えながら、ちょっと涙が出そうになって娘を見ると
私を見る娘の目も少し潤んでいた。


「あんなお父さん、どっかに消えてほしいわ!」と
苦しみ抜いて泣きながら叫んでいたこともあった娘・・・・


「ほんまにええんか?
 お父さんがどっかで行き倒れになって死んでも
 ほんまにそれでええんか?
 お母さんはどうしても、どうしてもそうは思われへんねん。
 自分の父親がそんなふうな死に方して、
 一生悲しむのは、一生苦しむのは、
 お前や兄ちゃんたちやと、お母さんはそう思う。
 お母さんは、お父さんにそんな死に方、絶対させたくないんや」


先の見えない暗闇と絶望の中で
そんなぎりぎりの話し合いを何度繰り返したことだろう・・・・


どうか娘よ、あの極限の中で、
生きるとはどういうことなのか
人を選別しないとはどういうことなのか
生の多様性を己が受け入れるとはどういうことなのか
多くのことを体で学んでくれたであろうことを
愚かな母は、ただそう祈るしかない・・・・

この記事のURL | 日々のこと | CM(4) | TB(0) | ▲ top
自己愛の障害について考える⑥フロイトとコフート
- 2007/08/16(Thu) -

「ナルシズムー天才と狂気の心理学」(中西信夫)より



フロイトの精神分析理論は、最初はヒステリーなどの症状を、
近親者からの性的侵犯によると考えた外傷理論に始まり、
第二期は、むしろ患者の
抑えられた願望や衝動によるものと解釈した衝動理論
そして、第三期には、こうした本能的衝動や願望を
自我機能によってコントロールする心理的装置を考える
自我構造理論へと到達する。


現在の古典的精神分析理論は、第三期の理論を言うが
フロイト自身が扱ったヒステリー症や不安神経症の患者が示す
症状・徴候、不安・固定観念、治療のときによく認められる
空想・白日夢・夢などの観察された素材から推論して
人間の心の構造モデルと、それを説明するのに必要な用語を作った。


エス(衝動の坩堝)
 自我(衝動と良心の調停役)
 超自我(規律や倫理を取り入れた良心)


性心理的発達
  幼児性欲と性衝動が満足される身体部分、すなわち
  口、肛門、尿道、性器によって発達を考える。
  幼いときの段階に戻ることを「退行」
  そこに停滞することを「固着」という。


性格特性
 この性心理的発達の段階の固着の仕方で性格を考える。
 「口唇期」は依存性 「肛門期」は倹約 「尿道期」は競争的などである。


過程を説明する用語としては


防衛
 自我がエスと超自我を仲介するために用いる方法で
 「抑圧」 「合理化」 「投射」など


転移
 幼いときの親ならびに重要な他者との関係を、新しい人間関係に持ち込む。


解釈
 エスと超自我は相容れない関係で、常に葛藤が生じやすい。
 そのために自我がその調停役としてさまざまな防衛を用いるが
 自我の機能が弱まると、」ヒステリー症や不安、強迫神経症のような
 さまざまな徴候がみられる。
 この外側の徴候を内的な葛藤の結果であることを明らかにすることを
 「解釈」といい、分析治療の中心となる。


コフートの自己心理学では、実際に観察していることは
誇大的・顕示的行動、性倒錯、心気症、共感性の欠如など
自己愛人格の特徴や行動であった。




この記事のURL | 自己愛の障害について考える | CM(0) | TB(1) | ▲ top
自己愛の障害について考える⑦コフート理論の独自性
- 2007/08/17(Fri) -

「ナルシズムー天才と狂気の心理学」(中西信夫)より



コフートの自己心理学では、古典的精神分析とは異なる用語が用いられる。


過程をあらわすものとしては


鏡映転移
 親や治療者が相手の誇大的・顕示的な自己を鏡のように映し出してやること


理想化転移
 子どもは万能的で理想的な対象を自己の一部として体験し
 無力感や空虚感から身を守る


変容性内在化
 自己を誇大的・顕示的に映し出し
 自己の理想像として讃美される自己対象を内在化して
 自己を構造化すること


共感的対応
 親や治療者が子どもや患者の心理的世界を自己の中に再構成して
 包括的に理解することにより、相手の自己愛欲求を体験し
 それを満足させつつ、自己の成長をはかる関わりあいをいう。
 これが自己心理学治療の中心をなす。


自己の構造的側面を理解するものとしては


誇大自己
 子どもが持つ誇大性や顕示性の欲求を強く示す自己で
 凝集自己期に認められ、鏡映転移の中で活性化される。


理想化された親イメージ
 親は自分を愛し、完全に理解してくれるばずだという
 理想化された自己対象によってつくられるイメージ


分身的双生児的関係
 他者を自分の分身あるいは双生児の一方のように体験すること


自己対象
 実際には外的な存在である親や保育者、すなわち「対象」を
 主観的・情動的に、あたかも自分自身の
 「自己」の延長であるかのごとく体験されること


コフートによる「自己の発達と病理」では
フロイトのようにエスと超自我の葛藤というような力関係ではなく
幼児的な自己が二つの方向・・・・誇大的欲求と理想化の欲求・・・・
に成長していくことを示しており、
最も原始的な段階から、次第に健康な機能する自己へと
成長していくことを示している。


すなわち、健常者と人格障害との間に、連続性が認められるのである。

この記事のURL | 自己愛の障害について考える | CM(0) | TB(0) | ▲ top
日々のこと
- 2007/08/18(Sat) -

        


「うろこ雲」


昨日の空。


まるでお盆が過ぎたことを知っているかのよう。


美しい雲。


空気が澄んでいると見えるらしい。


酷暑が続いているが「秋だなあ~」と一息つかせてくれる。


そうそう、「うろこ雲は三日のうちに雨」とも言うらしい。


一度この灼けついた大地を思い切り潤してくれないかな・・・・


・・・・・・・・PCを新しくして、思いもかけないことを知らされてしまった。


自分が「アク禁」にされていたことがわかったのだ。


これには相当堪えた・・・・


悲しかった。


そして、ジッとこの悲しみがどこから来るのかを見つめた。


いろんな人がいる。


いろんなことを仕掛けてくる。


ただそれだけのこと。


そう感じるころには心も落ち着きを取り戻した。


知ることができて、よかったのだ。




この記事のURL | 日々のこと | CM(0) | TB(0) | ▲ top
自己愛の障害について考える⑧カリスマ性
- 2007/08/18(Sat) -

カウンセリングルーム:Es Discovery より



有能感が認められている自己愛障害の人の周囲には
その人を肯定褒め称え
追従する者が集まりやすくなってくる。


自己愛を肥大させて天真爛漫に振る舞いながらも、
人を魅惑して惹きつける自己愛的な人物は、
自己中心的に自信満々に行動することで
他人の理想自我』を刺激し
仮想的な全能感』を付与できるカリスマティックな人物である。


自己愛が強い人は自己愛が弱い人よりも
魅力的で指導力があり有能なことが少なくない。


「圧倒的な美貌(チャーム)」
「絶大な指導力(リーダーシップ)」
「驚異的な知性(インテリジェンス)」
「並外れた実践力(プラクティス)」
などが自己愛に加わると大衆を強力に惹きつける
ある種の『カリスマ性』が自然に醸成されることがある。


自己愛に従って自分の欲求や自尊心を満たしているだけなのに、
『自分の正しさや価値』について微塵も揺るがない
絶対的な自信を持っているように見える人物が、
強力(誘惑的)なカリスマ性を身に付けることがある。


これは、自己愛を抑圧された無数の民衆の
『全能感(優位性)を志向する理想化』の欲求が、
強力な自尊心(信念)・旺盛な行動力・身体的な魅力を持った
自己愛的な人物に投影され、
民衆一人一人がカリスマ的人物に
投影的な同一化を起こしている状況である。


自己愛障害の人は、
自分自身が投影同一化を起こすことがあるが、
同時に、魅力的でカリスマ性のある
自己愛障害の人に対峙する人(個人・大衆)も、
予期せぬ投影同一化(projective identification)
を誘発されることがある。


社会的有能性を維持し
生産的活動を行っている自己愛障害の人は、
他者に対して自分を理想的(カリスマティック)に認知させる
投影同一化を誘発することに成功しているといえる。

この記事のURL | 自己愛の障害について考える | CM(0) | TB(0) | ▲ top
自己愛の障害について考える⑨フロイトとコフート
- 2007/08/19(Sun) -

カウンセリングルーム:Es Discovery より



フロイトは、
乳幼児期の自己愛を『一次的ナルシシズム』と呼び、
対象愛にリビドーの転換が起こってからの
退行的な自己愛を『二次的なナルシシズム』と呼んだが、
二次的なナルシシズムは
自閉的な精神病や精神病理の一種である」と考えていた。
『自体愛→自己愛→対象愛』という対象の移行
正常な精神発達過程であると考えていた。


コフート
『自体愛→未熟な自己愛→健康な自己愛』のように
健全で正常な自己愛』を人間は生涯持ち続ける
という立場に立っている。
発達早期の共感的で尊敬できる親の存在が、
適応的で健全な自己愛の発達を促進すると考えたのだ。


コフートにとっての病的で不健全な自己愛とは、
幼児的全能感に支配された自己顕示的な誇大自己』であり
原始的な理想化(カリスマへの同一化と従属化)に支配された親イマーゴ』である。


「原始的な理想化」とは、
圧倒的な権力や強大な権威を持つカリスマ的指導者に、
投影同一視を用いて自己と同一化したり、
その指導者に完全に従属して自己の主体性を放棄することを指す。


向上心の極を持つ『誇大自己』と
理想の極を持つ『理想化された親イマーゴ』が
相互作用して進んでいく心的構造の形成過程を
変容性内在化』というが
コフートの自己心理学での自己愛性人格障害の形成は、
この「変容性内在化の不適切な進展」と見なすことができ
『誇大自己』と『理想化された親イマーゴ』のバランスが崩れ、
統合的発展が失敗すると性格構造に大きな歪みが生じて
自己愛性人格障害や
境界性人格障害(ボーダーライン)といった問題が生じてくる
とした。


この記事のURL | 自己愛の障害について考える | CM(0) | TB(0) | ▲ top
自己愛の障害について考える⑩特別な存在としての自分
- 2007/08/20(Mon) -

カウンセリングルーム:Es Discovery より



誇大感を持つ人の二つのタイプ


自分を素晴らしいと思うタイプ。
対峙した相手を素晴らしいと思うタイプ。


自己愛の障害を持つ者同士の奇妙な関係。


あなたは素晴らしいというタイプは、
その素晴らしい人に奉仕している自分自身も
素晴らしい特別な存在だということになる。


偉大な独裁者を崇拝する献身的な国民、
偉大な宗教指導者に身を捧げる熱狂的な信者・・・・


ありのままの自分が愛せないだけなのだ。
自分は常に優越的な存在でなければならず、
本来愛すべき自分とは、
とにかく輝いていなければならない。


しかし、それはありのままの自分ではないので、
現実的な裏付けを欠く。


有名人に近付くことで
自分を特別な存在だと思い込んだり、
大物に近付いて自分の誇大感を膨らませ
自分も同じ世界の人間になったように錯覚して、
裏付けのない空想的な野心にのめり込んだりする。


傲慢だと言われてもぴんと来ない。
それどころか他人を過小評価しているので
自分より優れたものを認めず馬鹿にしている。
他人の能力や才能が見えず、他人の優秀さを無視する。
そして、他人を見下したり貶したりすることに快感を覚える。


聞かれもしないのに、
やたらといつも自分のことをしゃべりたがる
話が他へ移ろうとすると、
いつも自分の話に引き戻そうとする。
自慢話ばかりで聞いている方はうんざりする。
他人に関心がないのでうんざりしていても気づかない。


自分は特別な人間だ、
一般人とは違うんだという意識から、
小市民的な生き方を軽蔑し、
そういう人達と一緒にされることを嫌う。
裏付けとなるものがなにもないのに、
一目置かれる存在であることに非常にこだわり
自分という人間は
特別な人しか理解することができないのだと思っている。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


某宗教団体の多くの人々の姿そのものではないか。


そこの指導者が格別にそうであったように
何層にも階層化されて組み込まれた幹部たちも
その幹部の言いなりになることで
自己の優越性を誇示しようとする信徒たちも

(もちろん夫も私も)
同じ穴の狢だったんじゃないか。


だから辞めたからといってそう簡単に変わりはしない。


何度でも時と所を変えて同じようなことを繰り返す。


自分自身の抱える問題がお座なりになったままだから。
自分自身を見つめようとしないから。
問題は外側にあるとしか思っていないから。


要注意!自分!

この記事のURL | 自己愛の障害について考える | CM(0) | TB(0) | ▲ top
日々のこと
- 2007/08/20(Mon) -

盆休みが明けて


数日仕事に行っただけでバテバテになってしまった。292


この暑さだから仕方ないのだろうけど、


今日は一日中ダウン。


何もできずにニャンコと一緒にゴロゴロ~ゴロゴロ~


やっとこさっとこお弁当と洗濯だけはしたけれど、


これから夕食の準備・・・・


ため息が出るほどしんどいわあ~12


明日は病院へ行く。


検査検査になったら嫌だな~404


今日はとりあえず早く寝ようと思うけど、


古本屋に注文していた本が届いてる。


なんだか不吉な予感がする・・・・


夜更かししたらアカンよ!自分!

この記事のURL | 日々のこと | CM(0) | TB(0) | ▲ top
日々のこと
- 2007/08/21(Tue) -

私にとって、回復への第一歩は
生育過程まで遡って深く刻印されてしまっている
否定的な自己イメージを少しでも変えていくことにあり、
しかもそれこそが、最も困難な課題であったといえる。


その困難な遠い道のりを思った時
長年暮らした地域を離れざるおえなくなり
止むを得ずこの地へと引っ越してきたことは、
不運から唯一与えられた、真に幸運な出来事だった。


都会生まれ、都会育ちの私には
普通電車しか止まらない、
他県との境界にあるこの辺鄙な地方都市は
これまで経験したことのない
自然に恵まれた癒しの場所であったようだ。


ここに越してきてからの約1年間は、
真っ白な空間をただ呆然と漂っていたかのような
曖昧な記憶しか残っていない。


それほど心も身体も極限状態だったのだろう。


「安心してゆっくり休息を取ること」
それが当時の私たち家族にとって、一番必要なことだった。


かつて所属していた宗教団体への強烈な不信感。
教義への疑問。そこで受けた数々の心の傷。


そして、壊滅的に破綻した経済、生活、家族関係・・・・
一人一人が疲弊の極みにあったように思う。


ありとあらゆる問題を抱えながらも
生きるために、だた生き残るために
新たな旅立ちをしなければならなかった日々。


ここでの自然とのふれ合いは
ゆっくり長い時間をかけて私や家族を癒し、
自分自身を見つめる心の余裕を
そっと与えてくれていたのかもしれないと、
最近になってそう思ったりもする。


過去の自分を冷静に見つめ直し
罪悪感に押し潰されることなく、
一つ一つを検証しては心の重しを外していく作業。


自分の人格的な問題点さえも恐れず淡々と見つめていくこと。


それらは今もまだ、ずっと続いてはいるのだが。

この記事のURL | 日々のこと | CM(0) | TB(0) | ▲ top
今、改めてアダルト・チルドレンを学ぶ①
- 2007/08/22(Wed) -

webちくま・臨床心理士・信田さよ子氏 
「虐待する親の姿ーアダルト・チルドレン」より抜粋


親子の役割逆転


1980年代半ばにアメリカで AC ということばが広がるきっかけになった
私は親のようにならない』C. ブラック著、斎藤学監訳。


ひとことでいえば、
親の機能を果たさない両親を子どもが支えるという役割逆転によって、
家族に適応していくという道である。


ブラックはそのパターンを
(1) 責任者、(2) 調整役、(3) 順応者と分類している。


母親の相談にのる、愚痴の聞き手になる、
父の介抱をし母との間を取り持って、
きりきり舞いをしながら弟妹のめんどうをみる、
学業に秀でることで一家の希望の星になる・・・


その子たちは親からはもちろん、先生や近所のひとからも、
しっかり者のいい子と評価されながら育つ。


経済的・物理的に支えるのではなく、
情緒的・心理的に子が親を支えるという点が強調されるべきだろう。


つまり親の期待をいち早く実現することによって、
子どもは親の情緒を安定させる。


親は子どもに依存しているのだが、その自覚はない。
それが当たり前だと思っているからだ。


子どもは自己の欲望より親の欲望を読み取ること、それを満たすことを優先する。
これは、自我意識が形成される以前に習慣化され、当たり前になっている。


思春期を過ぎて「生きづらさ」「対人関係の行き詰り」を感じたとしても、
親の欲望こそ満たされなければならないという命題は血肉化していて
意識に上ることすらない。
その問題点が浮上するのは成人後だ。


思い返せば、ずっと親の期待を満たすためだけに生きてきた。
 対人関係でも絶えず周囲の期待に添うことばかりを優先させてしまう。
 自分の欲望、意志を自覚することに大きな罪悪感がある


これらは AC のひとたちの
カウンセリングで繰り返される発言のほんの一部である。


親を支えるために身に着けたサバイバルスキルが、
皮肉にも成人後の不適応を生み出してしまうというパラドックスが、
そこにはみられる。


ただただ必死に生きてきたことは、
責められるどころかむしろ敢闘賞ものなのに。


では、それはいったい誰の責任に帰せられるべきなのだろう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


現在は、娘になにがしかの問題点らしきものは感じていないが
大変な家庭で育たざるをえなかった娘の心情を、少しでも深く理解してゆくために
そして、被害者であり加害者でもある、自分自身を見つめるために。


もう一度、学び直してみたい。


 


 

この記事のURL | アダルト・チルドレン | CM(0) | TB(1) | ▲ top
今、改めてアダルト・チルドレンを学ぶ②
- 2007/08/23(Thu) -

カウンセリングルーム:Es Discovery より


自己愛(self-love)が発達早期の家族関係を通して傷ついた場合に、
アダルト・チルドレン(Adult Children)という概念が用いられる。


アダルト・チルドレンは、
見捨てられ不安に根ざす他者への強い依存性支配性を持っている点や
「自他の区別の認識が弱い」という精神的自立が困難な特徴を見せる。


アダルト・チルドレンは、
機能不全家族(被虐待的環境・愛情剥奪環境)で育てられて大人になった人』
という意味で用いられ、
元々は、アルコール依存症や薬物中毒の親によって
被虐待的な家庭で育てられてトラウマを負った
ACOA(Adult Children Of Alchoholics)という意味で用いられていた。


ACOAの場合は、心理的な愛情や保護の欠損という観点よりも、
アルコール依存症である親の情緒不安定(感情の爆発)
身体的虐待の問題が重視されていた。


アルコールや薬物(麻薬)、ギャンブルへの嗜癖がある家庭では、
職業活動が不安定で家庭生活が荒廃しやすく、
DV(ドメスティック・バイオレンス)のような配偶者間暴力も起こりやすくなる。


子どもが母親(父親)へのDVやDV後の打ちひしがれた様子を目撃することは、
子どもが直接に身体的虐待を受けたのとほぼ同等の心理的ダメージを与えるが、
家庭内で暴力(パワー)による支配(秩序)が正当化されていると、
子どもは『支配・服従の二元論的な人間関係のパターン』を
間違って学習しやすくなる。


家庭内部における暴力行為を容認する空気があることは、
家庭が誰も干渉できない治外法権であるという幻想的な錯覚を生み出し、
夫婦間に実力主義的な上下関係があるのが当然で
子どもは親の満足のために従属的に存在しているという認知の錯誤をもたらす。


この家族関係に対する認知の錯誤は、
思い通りにならない配偶者を暴力で屈服させようとするDV(配偶者間暴力)や
自分の満足や期待に叶わない子どもを痛めつけたり
無視する児童虐待につながる恐れがある。


一方で、共同体の生産能力が低く
医療技術(権利意識)が発達していない多産多死の社会では、
子どもは親(帰属共同体)のために存在するのであり、
『愛情(保護)の対象』ではなく『命令(使役)の対象』と見なされ、
身体への虐待や精神への侮辱、
労働力の搾取などが日常的に行われてきた歴史がある。


産業革命によって経済力が飛躍的に拡大し、
子どもの基本的人権が意識され始め、
児童を酷使する工場労働・家内労働が法律で規制されるまでは、
子どもに進んで保護・教育を与えようとする親は少数派だった。


こうした時代には、みんながアダルト・チルドレンとも言えるが、
アダルト・チルドレンは
家族関係の被害者としての自己認識
(普遍的な人権思想に紐付けられた養育者の保護責任)』に根ざしているので、
子どもの権利自体が存在しない社会では、
そういった自己認識を持つ者自体がいなかった。

この記事のURL | アダルト・チルドレン | CM(0) | TB(0) | ▲ top
日々のこと
- 2007/08/24(Fri) -

とある私の極めて数少なーい友人とのお約束で我が家の猫ちゃんをご紹介。


     miiya.jpg
     


ホントに小さ~い頃、多分生まれて何日も経たないうちに捨てられたのでしょう。


ガリガリに痩せて、栄養失調でお腹だけが異様に膨れ上がっていて
尖がった細長いお尻尾と、トトロに出てくる「まっ黒くろすけ」のような顔に
大きな金色の瞳をギラギラと光らせながら
私の片方の手のひらにスッポリ包まれて、ブルブル震えていたのでした。


そう・・・まるで「悪魔の子」のような赤ちゃん猫でした。


前に住んでいたところで、学校帰りに娘が拾って帰ってきました。
早速、獣医に連れて行き、病気の有無を検査し
与えてもいい餌を選んで頂きました。
その足でペットショプにも行って、丁寧に全身シャンプーをしてもらい
晴れて我が家の一員になったのが2000年の7月でした。


間もなく私たちは引越しをすることになるのですが
この子も怯えながらも数週間かかって何とか順応してくれました。


相当怖い思いをしたのか、飼い始めてからの数年間は
抱き上げても、名前を呼んでも、全く反応せず
私の腕の中でも顔を背け、決して目も合わそうとはしなかったのです。


飼い始めて3年目ぐらいから、少しずつ愛情を示すようになり
そして・・・・とんでもないヤンチャくれの暴れん坊になりました(笑)


まあ人間でも猫でも、まずは元気がなによりと腹を決めて(諦めて?)
好きなように暴れさせながら、相当の被害も蒙りながら、
スクスク育って、いつしか優しい甘えん坊になっていました。


その動きの機敏さ
悪知恵の発達しているところ
風貌と目つきの鋭さから


「どう見ても、カラスそっくりの猫だね」と、よくみんなで大笑いしたものでした。
今ではかけがえのない家族の一員です。

この記事のURL | 日々のこと | CM(2) | TB(0) | ▲ top
私の好きな曲・初めての試み
- 2007/08/24(Fri) -

このやり方を教えて下さったのは、私の極めて数少なーい、リンクして下さっている「LOAD  OF  MIND」 のzinさんです。


http://success69.blog82.fc2.com/


誰でも出来ますよ!!この私でも出来たんですから。


この記事のURL | 私の好きな曲 | CM(4) | TB(0) | ▲ top
今、改めてアダルト・チルドレンを考える③免責性と過剰な自己責任
- 2007/08/25(Sat) -

・・・・・webちくま・臨床心理士・信田さよ子氏 
    「虐待する親の姿ーアダルト・チルドレン」より抜粋・・・・・


免責性と過剰な自己責任


AC に対しては、さまざまな評価や批判が与えられてきた。
その論点のほとんどが
「ひとのせいにする」「親のせいにする」という点に絞られていた。


「あなたが悪いわけではない」


流行語になるずっと前から 、AC のひとたちにとって
その一言がどれだけ必要とされているかを肌で感じてきた。
被虐待児への対処で最初に必要とされることばが
「あなたが悪いわけじゃない」である。
幼児と同じことばが、なぜ AC のひとたちに対しても必要なのだろう。
その秘密は、幼児的万能感が形成する世界観にある。


3歳から6歳までの幼児期、
子どもたちはあらゆるものの中心に自分がいるという天動説的世界を生きる。
せみが鳴くのも、太陽が東の山から上るのも、自分が動かしているとすら考える。
快と喜びの経験は「自分がいい子だから」という因果・意味を形成し、
世界は秩序立つ。
そこから「よい自分」「生きていい自分」の核がつくられていく。


いっぽう目の前で、父が母を殴り、母が泣き叫ぶ場面に遭遇すると、
子どもの足元の世界はまっぷたつに割れ破壊されるだろう。
両親が繰り広げる修羅場は、どうしていいかわからないカオスである。
混乱の中で子どもは「自分が悪い子だからこんなことが起きる」と思う。
自分を否定する残酷な因果律だが、
それによって世界は説明可能となり、秩序を回復する。
「自分が悪い子だから」と考えれば、説明不可能な世界など存在しなくなる。


幼児期に刻印された自己認知は、
父と母の関係が突然平和で穏やかなものに変貌しない限り、
そのまま維持されるだろう。


言い換えれば AC のひとたちは、
「自分のせいだ」と考えることでしか世界を秩序立てられなかったのだ。


一種のサバイバルスキルとしての否定的自己認知は、
いっぽうで意識の底流に「生きている価値などあるのだろうか
この世の空気を吸っていてもいいのだろうか」という問いを胚胎させる。
生き延びるためのスキルが自分を否定するというパラドックスが、
AC のひとたちの生きづらさを形作っている。


この自己否定は、過剰な罪悪感・責任感につながることはいうまでもない。
AC のひとたちがどれほど親を支え、責任を感じてきたかの描写は省略するが、
親はそのことにほとんど無自覚だ。


「ひとのせいにする」という批判はたしかに一理あるが、
AC というアイデンティティを受け入れるまでに
背負いすぎた責任の重さを思えば、
まず免責性の承認が必要なのだと思う。


だから「あなたに責任はない」と免責されることが、
まるで干天の慈雨のように感じられるのだ。


これまでの人生で他者から一度も言われたことのないことばによって、
AC のひとたちはいったん過剰な荷を下ろすことができる。


その瞬間を「世界が違って見えた」「謎が解けた」
などと表現するひとがいるのは、
自己責任をめぐる劇的なパラダイム転換が起きるからなのだろう。


この転換点を経ることで、
はじめて「適正な」自己責任がみえてくるのだ。

この記事のURL | アダルト・チルドレン | CM(0) | TB(0) | ▲ top
日々のこと・再会
- 2007/08/26(Sun) -

今日は、ホントに随分昔々に、


まだ10代の頃に親しくしていた人と偶然に再会し、


急遽、一緒に食事に行くことになり


あまりの懐かしさに話が弾んで、つい・・・深酒をしてしまいました。275


今もフラフラ、頭もボーッ、眠くてどうにもなりません・・・・


・・・ので、今日はこのまま、おやすみなさい~75

この記事のURL | 日々のこと | CM(0) | TB(0) | ▲ top
今、改めてアダルト・チルドレンを考える④親の加害者性
- 2007/08/27(Mon) -

webちくま・臨床心理士・信田さよ子氏 
「虐待する親の姿ーアダルト・チルドレン」より抜粋


被害者としてのAC・加害者である親


自分に責任はないという免責性は、
これまでと反転した自己認知であり、
そのまま親に責任があるという「親の加害者性」につながる。


「親のせい」でこんなに生きづらいのだから、自分は親の被害者である、
AC はこう主張している。


おそらく AC 批判のもうひとつのポイントは
親の加害者性」を含意している点にあったのだろう。
被虐待児としてでなく、成人後に親を責めることに対して、
日本の社会はそれをまったく容認してこなかった。
親を許すことが成熟の証しとすら考えられてきたのだ。


AC の主張は、日本の家族のタブーに対する挑戦だった。


被害者の視点で、加害者としての親を語ることは、
しかしそれほど簡単なことではない。
中年になるまでは「親だって理由があったのだろう」
「私のために親はあんなことをしたんだ」と親をかばいつつ
親の立場から自分を責めてきたのだ。


そのひとたちが、一転して子どもの立場から、
被害者としての経験を語った後に、
強烈な自己嫌悪や罪悪感にさいなまれることは珍しくない。


根深くすみついていた長年の認知が変わるときは副作用が生まれる。
憎しみや怒り、恨みといった親に対する感情は
すべて肯定されなければならない。
中年になっても忘れられない親の言動に対して、
謝罪を求めたい気持ちは当然だ。


問題はその表出の方法である。
親が存命だからといって、
親に向かってそれを投げつけることは単なる復讐だろう。


多くのクライエントから「親にあやまってほしい
あやまらせたい」という言葉を聞いたが、私は賛成しなかった。


その希望はほぼ裏切られるからだ。


親は奇妙なほど AC のひとたちの記憶している行為を忘却している


加害者は加害記憶を喪失する
これは私が AC のひとたちから得た教訓のひとつである


それどころか、「今頃何を言ってるのか」
「いつまで甘えたことを言ってるんだ」
逆切れされて傷つけられたりする。


親は愛情からやった行為だと思っており、
加害者としての自覚などないからだ。


常識も、美しい家族像も、すべて親に与している。


だから、親が変わる期待など捨てるほうがいい。
私は、そう思っている。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「加害者は加害記憶を喪失する」


母に限らず、夫もまたその通りの反応でしかなかった。


かつて、自分にとって唯一の救いは
「心からの謝罪」であったにも拘らず
そのことに少しでも触れると逆切れされ、
何度でも、更に傷つけられるのが事の成り行きのオチであった。


それでも私の謝罪への欲求は強く
まるでそのことだけが
苦しみに耐えて生きてきた
自分自身の
「存在証明」そのものであるかのような強烈さで
つねに私を襲い、苦しみ続けた。


許したのか?諦めたのか?受け入れたのか?
ただ長い時間の経過のなかで、いつの間にか風化していったのか?


今の私にあの根深く棲みついていた憎しみも怒りも恨みもない。


ただ私は思う。


許そうと許すまいと、そんなことを当事者でもない人間が
偉そうにとやかく言う資格など誰人にも欠片もありはしないと。


生涯、憎み怒り恨み続けたって、当たり前じゃあないかと。


時に、「自分はすでに親を乗り越えた」などと偉そうに
かつて同じ苦悩を生きた人間に向かって優越した目線で見下し
自らの成熟度を誇示しようとする哀れな人間もいる。


誰に何が分かるというのか。


私と人とが違うように
同じような虐待の事実を生きてきても
人と人の間に横たわる心的現実は
全く異質な体験として厳然と存在しているのだ。


許して生きようが、生涯許さず生きようが
どこまでも自由であり、至極当然なことであり
今更なんで「成熟度」などと言う言葉に
強迫される必要などあるものか。


私はそう思っている。

この記事のURL | アダルト・チルドレン | CM(0) | TB(1) | ▲ top
今、改めてアダルト・チルドレンを考える⑤権力に満ちた親子関係
- 2007/08/28(Tue) -

webちくま・臨床心理士・信田さよ子氏 
「虐待する親の姿ーアダルト・チルドレン」より抜粋



親子関係は権力に満ちている


「あなたが悪いわけじゃない」
という免責性を他者から承認されることで、
ACのひとたちは過剰な自己責任から解放される。


それはそのまま、責任を育児の主体である親に返すことを意味し、
ACのひとたちは自分を被害者、親を加害者として認知する。


犯罪の加害者と異なる点は、
親ごころ、良識、愛情といった疑いもない「正義」
親という立場には付与されていることだ。


親は、自らを加害者として認知するどころか、
愛情深く正しいしつけをしたのだと思っており、
それに子どもが異を唱えることを許さない


「親は子どものことを思っていて正しい」のだから、
家庭における「状況の定義権」は親に属している。


M.フーコーは「権力とは状況の定義権である」と述べた。
ACのひとたちはそのような親の権力に真向から立ち向かう。


「親のいうことを聞け」という全体主義的権力であれ、
「お前のためなんだから」というパターナルな権力であれ、

いずれも権力であることに違いはない。


ACは親子関係を表現する語彙に「権力」を加えたことになる。


自分と親との関係を被害・加害というパラダイムで、
権力関係というフィルターを通してとらえなおすことは
それほど容易ではない。


「親のせい」にするのと同じくらい、
常識や良識からの激しい反発を招くだろう。


正義を付与された親に対する反逆を意味するからだ。


ACと自己認知することは、
このように親子観を転換すること、
反常識の立場に立つことを意味する。


カウンセラーである私も、
親と子のいずれの立場にあなたは立つのか
表明を厳しく迫られることになる。


「親だってそれなりの理由があったのでしょ」
という一見中立にみえる意見は、
実は親の依拠する良識そのものであり、
親=加害者側に立つことを意味する。


私がカウンセリングの場で
徹底して目の前に座っている
クライエントの立場に立つことにしているのは、
このような理由からである。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


権力は構造的な特質を持っている。


「人々のために」との「正義」を振りかざしながら
一部の、優越性をもっていると勝手に思い込んでいる人間だけで

自分たちの思う方向へと人々を操作し、コントロールしようとする。


そのために何重もの階層化を目論む。


人はそこへ入ることは望んでも、自ら降りることはしない。


権力の側の人間になることを無意識的に欲求しているのだ。


そこに真の人間・間の対話など成立するはずもないのに。


そこにあるのは支配ー被支配の関係性でしかないのに。


教育しようとでもいうのだろうか?


教育もまた権力であり、陰湿な暴力性を秘めているというのに。


「人を選ぶという傲慢」 「人を教育しようという不遜


そんなの、私は真っ平ごめん。


私は決して権力の側には立たないことを、自分自身の生き方の主軸に据えたいと、
かの宗教団体と決別して以来、
常にそう思って生きている。

この記事のURL | アダルト・チルドレン | CM(0) | TB(0) | ▲ top
今、改めてアダルト・チルドレンを考える⑥被虐待経験の証言者  
- 2007/08/29(Wed) -

webちくま・臨床心理士・信田さよ子氏 
「虐待する親の姿ーアダルト・チルドレン」より抜粋


被虐待経験の証言者としてのアダルト・チルドレン


虐待ドメスティック・バイオレンスも、家族内の暴力は親密だからこそ起きる
いっしょの空気を吸い、同じ食べ物を食べ、時には体を接触させるからこそ起きる。
これが市民社会の暴力犯罪と大きく異なる点だ。
加害者を犯罪者として処罰する厳罰主義だけでは対応しきれないものが残る。


虐待された子どもが児童相談所の介入によっていったん親と分離されたとしても、
親権停止処分が下されない限り、法的には親子であり続ける。
分離された「その後」の親子関係をどう構築していくのかはまだ手探りの状態だ。
そのためのヒントを与えてくれるのがACである。
虐待被害者としてのACを出発点にして、その後の親子関係を考えてみたい。


私は、35歳以上の女性を対象としたACのグループ、カウンセリングを
11年にわたって実施している。
親が高齢化もしくは死亡してはじめて、
親との関係を語り再考し整理したいという女性が多いからだ。
累計すれば100人を超えるACの女性たちとのかかわりをとおして、
私は多くのことを学んだ。
 
彼女たちは、いわば「被虐待経験の証言者」である。
現在各地で起きている子どもの虐待事件をみても、
ニュースのテレビ画面に映る3歳の子どもに、
アパートでいったい何が起きていたのかを証言することはできない。
虐待加害者である親の証言内容は、子どもの経験とはかけ離れているだろう。
ましてその子どもが死んでしまえば、被害を証言する存在はなくなる。


アウシュビッツのナチス強制収容所で何が行われていたかが、
生き残ったひとたちの証言によって初めて明らかになったように、
閉ざされた家族の中でどんなことが起こっていたかは、
ACのひとたちによって時を経て初めて語られる。
それは、今から20年~30年以上前の児童虐待のなまなましい証言なのである。
 
幼い頃からの父や母の記憶をたどることで、
生まれて初めて言語化された被虐待経験の数々が、グループの場に満ちる。


「中絶できる時期を逃したから産んだ」と繰り返し言い聞かせる母親、
思春期の彼女たちに対して性器を露出し触らせる父親、
包丁で自分を刺してくれと頼む兄、日常的に殴る父・・・。


11年のあいだに、私はありとあらゆる虐待の種類を聞いた気がする。
親は子どもに、本当にやりたい放題だ、と何度思ったことだろう。
 
家族の中の子ども、それも小さな女の子は権力構造の末端に位置するので、
絶えず父、母、兄、姉からの支配にさらされることになる。


学校からの帰り道だけが、安心できる時間だったという45歳の女性もいた。
彼女たちの親は、テレビで見る虐待する親とはかけ離れている。
外見は、社会的に尊敬される立派な職業人の父、
教育熱心な、手作りのおやつを欠かさないよき母
だ。


彼女たちの経験との落差があまりに大きいので、
自分の感じ方がまちがっているような不安におそわれる。
自分の感覚への疑いを生み出す。


その親たちは、もっとも弱い立場の、
誰よりも自分を信じている(信じるしかない)存在の子どもに対してだけ、
人生に対する呪詛や恨みを全開させたのだろうか。
負の部分を子どもに放出し吸収させることで
かろうじて日常生活を成り立たせていたのだろうか。

 
グループ・カウンセリングは10回で1クールと区切られている。
もちろん何クール参加してもいいのだが、
10回目に生育歴を語ることが参加者に義務付けられている。


その理由は、
「私とは『自己物語』(self-narrative)である」
「人は物語によって生きる、あるいは物語を生きる存在である」
というナラティヴ・セラピーの考え方に私が深く影響を受けたからだ。


それをグループ・カウンセリングに組み込んで、生育歴を発表することにした。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


閉ざされた家族の中でどんなことが起こっていたのを
自分自身がはっきりと認識し、言語化出来るようになるまでには、
本当に長い道のりが必要だった。


私もまた、家族の中では最も小さい存在として
祖父、祖母、母、叔父、姉・・・
絶えず家族の支配にさらされ、排除され、
家族の安定のためにはどんな風にでも利用されてきた。


乳幼児期と小学1年生の時には、親の放置が原因で
死の一歩手前まで行ったことがあったにも拘らず、
まるでその原因が私自身の落ち度にあったかのように
長い間言い聞かされてきて
私は居た堪れない恥ずかしさと申し訳なさに打ち萎れていたのだから。


そんな私にとって
自分の問題を考える時に、最も障壁となったのが
「自分の感じ方」がまちがっているような不安や
拭いようもなく湧き上がってくる「自分の感覚」への疑いに襲われることだった。


こうして同じような状況が、自分が「関わる場」では常に繰り返されていく。


若い頃に関わった政治的な団体や劇団内部でも、
夫との関係や、あれほど長く活動した宗教団体でも、
子どものためにと長年携わったPTAや
自己の問題を見つめるために10年近く通ったカウンセリングを学んだ組織でも・・・・


もっとも弱い立場に甘んじざるをえず、支配ー被支配以外の、
対等な対人関係を学ぶ機会を失ってしまった存在である私に対してだけ、
人は、自分の抱える呪詛や恨みを全開させたのだろうか?


私という、自ら支配される立場に無意識的に身を置こうとする存在に
負の部分のすべてを放出し、吸収させることで
かろうじて自分の問題から目をそむけ、危うい自己を成り立たせていたのだろうか?


私とは『自己物語』(self-narrative)である


このブログは、私の「自己物語」を再構築するためだけにあるのかもしれない。


急がなきゃ!!遅刻だーーー!!

この記事のURL | アダルト・チルドレン | CM(0) | TB(0) | ▲ top
今、改めてアダルト・チルドレンを考える⑦加害者の像を結ぶ  
- 2007/08/30(Thu) -

webちくま・臨床心理士・信田さよ子氏 
「虐待する親の姿ーアダルト・チルドレン」より抜粋



生育歴はACである自分の物語を探り言語化して
グループの他者に発表することであり、
それは「当事者研究」そのものだ。


開始後しばらくして奇妙に感じたのは、
自分の生育歴を語れないひとがいたことだ。
どうしても親の生育歴になってしまうひとが何人もいた。
なぜだろうと考え、私は気づいた。


私の親はなぜあのような親だったのか?」という
シンプルな問いに対する答えを出さずに、
その親から生まれ育てられた自分の生育歴を語ることはできない。


なぜならACのひとたちにとっての生育歴とは、
親との関係そのものなのだ。


自分の欲望より親の欲望を優先させることで生きてきたのだから、
親の姿が鮮明でなければ、
いっぽうの極の自分を描くことはできないのだ、と。
自分の生育歴は、親の謎解きとセットなのだった。


彼女たちは生育歴の発表に備えて親の謎を解くために、
親の生家や親戚を訪れインタビューを試みる。
親のルーツをたどり、親の生きた時代を知り、
父と母の結婚のいきさつを探ることで親の像が立体的に浮かび上がる。
すると、謎はさらに祖父母の世代にも及ぶ。


こうして、発表される生育歴は昭和一桁から大正、明治にまでいたる
壮大な日本近代の家族史ともいうべき内容となる。


特に印象的だったのは、50代以上の女性たちが生育歴で語った、
第二次世界大戦から復員した父が
家族のなかでどれほど苛烈な暴力をふるったかという事実だった。


自分の生育歴は親の謎解きとセットであること、
親=加害者の像が結べなければ
AC=被害者である自分の物語がつくれないということ。


このことは、虐待ばかりでなく、さまざまな被害者に対するケアのありかた、
被害者の立場からどのように脱け出すかについて、
大きな示唆を与えてくれるように思われる。


流行語としての生命は終わったかもしれないが、
アダルト・チルドレン(AC)という言葉は
今でも私にとっては大切な存在である。
加害・被害の問題を考えるための宝庫といってもいいだろう。


(この項終了)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「私の親はなぜあのような親だったのか?」       


私にとって問いの始まりは
「私はなぜこんな人間であり、こんな愚かな人生を歩んでいるのか?」
という、悲痛な叫びであった。


高校・大学は通信教育、書物に答えを求め、
カウンセリングや臨床心理学、精神分析、精神医学・・・・と
果てしない道をただ一人、ぽつねんと歩いてきた。
対人関係が困難な私は、学校教育も、師も、友さえほとんど持つことは出来なかった。
たとえ誤った方向であろうとも、自分を信じてひたすら前に進むしかなかった。


うっすらと認識が生まれてくるに従って、やはり自然とここに書かれているように
母のこと、顔も知らない父とのこと、その生い立ちや二人の結婚生活の有様、
父母ともの祖父・祖母のこと、兄弟、従兄弟たちの行く末、
さらに遡って曽祖父・曾祖母、その子どもたち、
彼や彼女たちを取り巻いていた知人・友人、
彼らが生きた時代、社会生活・・・・等々
実に多くの人たちの人生の聞き取りをしていた。


「気が済むまで」・・・・終わりはそこにしかない。


それは止まることを知らず
夫の生育歴や夫の親兄弟、祖父母、友人関係、新潟の昔話の収集
かつての妻の生育歴や残してきた子どもたちとの思い出・・・・


すでにそれらの人々は、
いつしか人生を共有した懐かしく恋しい肉親のような存在となっていった。


来月、9月17日は、夫の前妻の亡くなった日である。
毎年この日は、彼女の苦闘の人生を家族全員で偲ぶ日なのだ。


(本日、左足首を捻挫し、職場から早退)


この記事のURL | アダルト・チルドレン | CM(0) | TB(0) | ▲ top
| メイン | 次ページ