FC2ブログ
2016 10 ≪  11月 123456789101112131415161718192021222324252627282930  ≫ 2016 12
にらまれるということ。
- 2016/11/07(Mon) -
街を歩いていると、見知らぬ人と目が合う事がある。
それでも普通は、「にらまれた」などとは思わずただ通り過ぎていくものだ。
しかし、「にらまれた」と意味づけする過去の私がいた。
『意味の病』だ。
他者の視線に、攻撃的なマイナスの意味を見いだしてしまうのだ。

また、精神的病理の中に『関係念慮(妄想)』というものがある。
本来、自分とは関係のない外界の出来事に、
自分と関係があると勝手に推量して
「にらんまれた」とか、「バカにされた」と思い込む。
自分に関係のない事を
何でも自分に関係づけてしまう過去の私がいた。
なぜこのような考えを持ってしまうに至ったのだろう?

そして、再び、自分自身に問いかけてみる。

子どもを養育する上で大事なことって一体なんだったのだろう、
私には何が決定的に欠けていたのだろう、と。

私は、『まなざし』、『声』、『スキンシップ』などの、
「なんとなく温かなもの」に抱かれている感覚だと思う。

温かなまなざしを全く向けてもらえず、
愛情のある言葉などかけてもらったこともなく、
抱かれたことすらただの1度もなかった私・・・

当時、結婚生活わずか3年余り、たった26歳で寡婦となっても、
10歳にも満たぬ頃に実母を失っていた母は、
戻れる実家さえないまま、婚家にとどまるしかなかった。

そんな家庭内で最も弱者であった母から、
より弱者である私に対して向けられたのは、
憤懣のはけ口としての家庭内イジメのような言動だった・・・

私は、母から、周りの人達から、
『まなざし』、『声』、『スキンシップ』を与えられることなく育ったのだ。
ましてや、長年母から受け続けたイジメ同然の言動は
どれほど深い傷となってこの身体に刻み込まれていたことだろう。

外界はすべてが敵だったのだ。
そして、尊重されない自分は、
自ら傷つけ破壊すべき忌むべき存在だったのだ。

そんな私の中には見て欲しという思いが募る。
見捨てられて来たために、
何としても人の注目を引きたいという思いが募る。
注目されたいという気持ちが強過ぎて、
なんとしても人とは違う、目立つ言動をとらねばという強迫的な思いが募る。

その思いは、いつしか「皆が自分を見ている」という幻想に変わっていく。
誰からも見てもらえない自分では、自己愛が傷つくので、
それを過剰に防衛した結果だったのだろう。

人は関心のある事、物、対象には心を向けて見るものだ。
養育者が子どもに関心がなければ、子どもが傍に居ても見ようはとしない。
まるで風景の一部のように、
「そういえばその辺に居たかな」それくらいの意識しかない。

人、ましてや子どもは、
他者に見られる事で自分の存在が明らかになる。
そこに居ても見られなければ、
その子は、人は、透明人間か幽霊と同じだ。

病理とはなんだろう?
それは欲したものがあまりにも欠けたために、
それを過剰に求めすぎて、極端になってしまった結果なのではないか?

「にらまれた」といって、見知らぬ人を金属バットで殴った事件を知って
ふと思ったこと。
この記事のURL | 未分類 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
| メイン |